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英雄たちの選択「右大臣吉備真備 左遷からカムバックした男」の内容と感想

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毎週木曜夜8時からBSプレミアムで放送中の「英雄たちの選択」。歴史学者磯田道史さんと杉浦友紀アナウンサーが司会の教養番組です。

www4.nhk.or.jp

 

歴史上の出来事を振り返り、もし自分がその立場だったら何を選択するか?実際の選択されたものと、ゲストの人たちが考えた選択を比べたり、英雄が何故その選択をしたか?ということを話し合う番組です。

私はこの番組が好きでほぼ毎週観ています。

 

12月13日放送されたのは「右大臣吉備真備 左遷からカムバックした男」。

奈良時代聖武孝謙淳仁、称徳、光仁と5代の天皇のブレーンとして仕え、最終的には右大臣に上り詰めた吉備真備(695~775)の大カムバック劇の真実を探る!という回でした。

 

古代が専門の歴史学者である倉本一宏さん、漫画家の里中満智子さん、元銀行マンの作家である江上剛さんという専門家の方々を迎えて、吉備真備という人物に迫られた選択を検証、分析をしました。

 

吉備真備のルーツは、今年2018年、西日本豪雨で被害に見舞われた岡山県真備町にあります。

司会の磯田道史さんは岡山県出身です。真備町が水害で紹介されることが多かったのを、悔しいと思っていたそうです。

真備町は、吉備真備という英雄を輩出した町。町名にも名前が採られていて、さらに、古代吉備の歴史のゆかり深い町だということを知ってもらいたい。という思いから、今回取り上げられることになりました。

 

唐で活躍した吉備真備

中国西安の中心部に「遣唐留学生 吉備真備記念碑」が建てられているのが紹介されました。石碑は、奈良時代唐に渡り活躍した吉備真備の功績を、今の中国に伝えています。

 

吉備真備は唐で20年、留学生として多くを学んだ秀才です。

唐で活躍した日本人は、吉備真備と、第8回遣唐使で一緒に唐に行った阿倍仲麻呂の二人だけです。

続日本紀」にその記録が残っていることが紹介されました。

 

真備の中国での活躍を表現した「吉備大臣入唐絵巻」という絵巻物が、真備町にある、まきび記念館で展示されていることが紹介されました。

絵巻の長さは全長25メートル。

さまざまなエピソードが絵で描かれていて、そのなかのひとつには、真備が超能力を持っていた人物として描かれていました。

 

絵巻物なので、絵だけで表現されています。絵だけ展示されてても何について描かれてあるか分かりませんが、今回番組で解説されているのを見て、実際に見てみたくなりました。

 

天平7年(735)。真備、唐から帰国。唐から持ち帰った、経書(唐礼)、暦、楽器、音楽書などを朝廷に献上しています。

そのなかには、当時中国で使われていた最先端の弓や矢などの武器もありました。

これらの武器は、その後の日本の戦いの在り方を変えたといいます。

中国の弓は「複合弓」という様々の素材で作られた弾力性のある強力な弓で、200メートルぐらいの飛距離があると、阪南大学教授の来村多加史さんはおっしゃっていました。

 

唐から帰国後およそ40年、吉備真備は日本の国づくりに大きく貢献していく事になるのです。

 

吉備真備のルーツ

吉備真備のルーツは、岡山県倉敷市真備町にあります。町の中心部に位置する箭田大塚古墳は、真備の祖先、下道氏一族が葬られたとされる古墳です。

番組では、倉敷市文化財保護課の学芸員の方の案内のもと、古墳の内部が映し出されました。

古墳全体の長さが19.1メートル。遺体を安置する玄室だけでも、8.4メートルあり、全国最大級だといいます。

 

古墳とは、道を通る人たちに、豪族の力を見せつけるために造られたもの。

この古墳を見て、吉備真備が出た下道氏の一族が巨大な力を持っていたことが分かります

 

真備の元の名は「下道真備(しもつみちの まきび)」といって、その祖先は現在の真備町一帯の、下道郡一帯の豪族です。

下道氏は、山陽道と南北の街道が交わる交通の要衝であるこの地に古墳を置き、道を通りがかる多くの人に力を見せつけたのです。

 

さらに真備町の隣の矢掛町では、寺の地下から、吉備真備の祖母とみられる大量の人骨が見つかりました。

その骨は、一部黒かったり灰色がかっているものがありました。

伝承で、火葬されたとされていたので、骨が見つかったことで、実物と伝承が一致したということが分かったそうです。

 

大陸から火葬文化が伝わって、わずか10年ほどのことだといいます。

これは、吉備地域が火葬文化が伝わってすぐに受け入れていたことになり、唐や都との結びつきが強く、文化の伝播が早かったという事が分かります。

 

真備は生まれながらにして、外国との深いつながりを背景に持っていたのです

 

政治に関わっていく真備

天平7年。

唐から帰国した真備は、聖武天皇のブレーンに抜擢されます。そして後の孝謙天皇になる、阿倍内親王の教育係にも選ばれ、重用されました。

真備は、橘諸兄、共に遣唐使で唐に渡った仲間でもある玄昉とともに積極的に朝廷政治に参画していきます。

 

その頃、唐のような国づくりを目指していた朝廷にとって、唐を見て来た真備は重宝される大事な存在だったのです。

 

しかし、真備を妬ましく思っていた藤原広嗣が、真備を「田舎者」と罵り、朝廷から排除しようと動きました。

天平12年(740)の藤原広嗣の乱です。2か月で鎮圧されました。

 

「田舎者」とまで言われた真備はそれまでの「下道」という氏を改め「吉備」という氏を名乗りました。

その氏は、出身地の地域の名を元にしたものでした。

 

自分の氏を変えるのは、本当は嫌な事だったと思います。でも変えた氏は、出身地の地域の名前で、より地方出身者であることを強調することになります。

恥ずかしいから変えたんじゃなくて、むしろ誇りを持って前面に名前に出したところに、真備の気の強さ、意志の強さを私は感じます。

 

今でも、本当の名前じゃなくて、あだ名で、出身地で呼ばれるなんてことがあります。

 

吉備真備とはどんな人物だったのか?

武器、暦など、多くのものをもたらした吉備真備。長い歴史の中ではどういう存在なのか?杉浦アナが磯田さんに聞きました。

 

磯田さんは真備を中国の最先端技術を持って来たテクノクラート(技術畑の官僚・政治家)。と評しました。

最新技術を持ってくるので、便利な人物。というわけです。20年も唐にいて、「礼記」と「漢書」という儀式の在り方と書物を教える天皇のブレーンとなった真備。

 

次に古代史が専門の倉本さんにも聞きました。

律令制がスタートして実際の運用が始まったわけですが、実際に国家を運用していく際に、どういうものが必要なのか?装置、システムが必要なのか、中国から持って帰ってきた人。当時唐は世界随一の帝国ですから。」とおっしゃる倉本さん。

遣唐使についた学生して、唐に行った真備は、日本国からのお金と、唐からも大量に下賜金が使えたといいます。

普通の人だったら、大変な大都会だし、遊ぼうとするところを、真備はほとんどのお金を書物に費やした。

文学などには興味を示さず、実学的なものを持ち帰った。

真備が唐から帰らなかったら、古代国家の運用は違っていた。

とまでおっしゃる倉本さんでした。

 

スゴイ人物ですね!私なんて都会にいて、お金もいっぱいあったら、コンサートや演劇、おいしいご飯とかに使います。

しかし真備は、そんなことには目もくれず、ひたすら役に立つものを買って、勉強していたんですね!そんな人いるんだなぁと感心しました。

 

次に、奈良時代のことをよく描いている、漫画家の里中満智子さんにも真備がどんな人物だと思うか、聞きました。

「真面目な生涯。本当に真面目に仕事をこなして、何度も遣唐使に行ってるんですけど、生きて帰って来るだけで運がいい。かなりの方が船が難破したり、漂流したりしてますから。」とまず、真備の運の良さを取り上げた里中さん。

磯田さんも、真備は2回唐に行ったので「4回全部難破せずに、帰って来るんですからスゴイ強運ですよ!強運だけじゃなく、難破しないように、漕ぎ手を上手く工夫したり、天候を読んだり彼自身で工夫していたのかもしれない。」と推測していました。

 

倉本さんがそれらの話を補足するように「真備は地位が低く、行きも帰りもいい船じゃなかった。」といい、4隻で行って、1隻目は難破したらしいので、天気を読むという知恵があったんだろうと推測されました。

 

地位が低い人だからこそ、割と自由に漕ぎ手とも話が出来たのかもしれません。

そんなことを想像すると、真備という人が、船を動かす人とも仲良く出来るコミュニケーション力のある人だったんじゃないかとも思えてきました。

頭のいい学者さんて、堅物なイメージですけど、人を惹き付ける何かがあった人だったかもしれませんね!!

 

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フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)

次に、元銀行マンの作家、江上剛さんに真備について聞きました。

江上さんは吉備真備を身近に感じると言います。

江上さんは、官僚や企業の不祥事を例に挙げました。

人に仕え過ぎると自分の判断基準がその都度揺れるけれど、分に与えられた職務にいかに忠実であるべきか。組織に生きる人にとっては身近な…奈良時代が迫るような感じがする。」と真備を評していました。

 

ルーツが真備に与える影響

吉備出身というルーツが、真備にどんな影響を与えていたのか?という杉浦アナの問いに磯田さんは、

「真備の出身地の吉備王国は、天皇にも妃を輩出している立派な家柄で、位に就くことが必ずしもないけれど、天皇の子どもが吉備の孫。一人はいる。」

ところが、現状は父の仕事は衛士というあまり地位の高くない仕事。「世間、どうせこんなもんだ。」というのがあった。

多くは望まなかったが、内心の誇りは非常に高かったんでは?と答えていました。

 

あと、祖母の骨が現在でもちゃんと形を保って見つかった件に関して、里中満智子さんが「健康な家系だったかもしれない。」と火葬された骨が丈夫だという事に注目していました。

里中さんの話を聞いて、磯田さんが、真備が子供らに残した「私教類聚」というもののなかに「医方を知れ」という項目があったと言い、相当な医療の知識がこの家にあったのだと補足していました。

 

骨一つ、残している文章一つで色々な事が分かります!

 

律令制が始まり、藤原氏が有利な世の中になっていた当時。他の士族は没落していくのが普通でした。そんななか、真備はあくまで学者という位置を保っていて、権力から離れている。

しかし真備が持って来た学問は、中国の最新の統治技術。奈良時代、権力は移動するが、真備はどの権力から見ても、必要な人間だった。」と倉本さんは真備の生き残ってきた所以を話されました。

 

藤原仲麻呂が命じる左遷の意味

天平12年(740)。聖武天皇が突然平城京を離れました。その後5年間天平17年まで、平城京天皇不在の状態が続きました。

そこへ光明皇后の甥である藤原仲麻呂が、この機会に実権を握ろうと動き出しました。

天平17年(745)。玄昉が太宰府に左遷され、広嗣の残党と思われる人物によって命を奪われ、翌年死去。

天平勝宝元年(749)には聖武天皇が退位。太上天皇になり、かつて真備が教育係をしていた、阿倍内親王孝謙天皇となりました。真備は後ろ盾を得たはずでした。

 

しかし…

天平勝宝2年(750)真備56歳。仲麻呂が真備を筑前守に任命。

天平勝宝2年(750)真備56歳。仲麻呂が真備を肥前守に任命。

1年で2度の左遷でした。

 

しかし真備はめげませんでした。肥前国で、ここで死んだ藤原広嗣の怨霊を鎮めるという儀式を行い、結果、地元の人の心をつかみました。

 

天平勝宝4年(752)真備58歳。遣唐副使として再び唐へ派遣される。

ここでも真備は成果を上げました。唐の高僧であった鑑真と対面。

天平勝宝6年(754)真備60歳。遣唐使船が唐から帰国。真備が鑑真を来日にこじつけ、結果、仏教の戒律を日本中に広めることに成功したのです。

 

仲麻呂の相次ぐ左遷命令に屈せず、次々に成果を上げた真備。都に戻れるはずでした。

しかし仲麻呂は唐から大宰府に送りました大宰府は日本と関係悪化していた新羅に近く、真備を防衛計画の責任者につくことを意味していました

 

真備の左遷は4年で4度ありました。

天平勝宝2年(750)筑前国(福岡県のあたり)

天平勝宝2年(750)肥前国(佐賀県長崎県の一部)

天平勝宝4年(752)唐

天平勝宝6年(754)大宰府

 

この左遷には仲麻呂のどんな思惑があったのか?

奈良文化財研究所の副所長の渡辺晃宏さんは、「仲麻呂は中国かぶれと言われるが、自分で中国に行ったことがないというのが弱点だった。真備は実際に中国行って知っている。仲麻呂は中国が大好きだが知らない。ずっと九州に追いやられていたのを見ると、煙たかったのでは?」と推測されていました。

 

左遷についての江上剛さんの見方

江上剛さんは、肥前国で行った藤原広嗣の霊を慰めるという行為に注目。

地元の人たちに溶け込むような、きっと一番汗をかくことをやった真備を、江上さんは、銀行員時代の鉄鋼所に送られた先輩の方を例に出して、評価しました。

その方ははじめ、鉄鋼所の財務のポストにいたが、溶鉱炉の石炭を入れるという一番人の嫌がる仕事を、炎にあたりながら、汗だくだくでやり続けたそうです。

するとどんどん会社の空気が変わり、会社に溶け込んで、先輩は再建に成功したのだそうです。

それから人生が変わり、再建を請負うという人生を歩んで行かれたといいます。

「随所に主となれ。」という「人財力」。

真備の生き方、一つ一つが現代のサラリーマンにぴったりくる、とおっしゃいました。

 

藤原仲麻呂の人生についての里中満智子さんの意見

里中さんは仲麻呂を、野心家。藤原氏のリーダー。藤原氏の中でも一番頭が良かったと言われていて、実力もあった。着実に野心の階段を上がってきた。

しかし、藤原だから出世して当たり前と思っている。対して、真備は大人しく黙々と仕事をこなしてる。内心野心がある人からしたら、野心を持ってない人が気持ち悪い。

変な恐怖心があったのでは?と推測されていました。

 

確かに、人って自分を基準に考えるから、自分と違うタイプの人間は分からないからこそ怖い。色々けしかけても全く動じなかったんやろなと思います。

 

里中さんが言うには、真備は天皇のブレーン。孝謙天皇の少女時代からの教育係をしていて、天皇家と非常に近い。それが仲麻呂にとっては邪魔だったのでは?と推測されました。

 

色々意見が出ました!

優秀な人は優秀な人をほっとけないんですよ!嫉妬かな?

ドロドロしていて面白い!!!奈良時代

ハイレベルな戦いや。

 

大宰府任務の選択、どちらを選ぶか?

大宰府への任命、真備の選択。

 

一、任務を果たさず引退
二、大宰府で任務を果たす

 

ゲストの皆さんが真備の立場だったら、どちらを選択するか??

 

里中満智子さんの選択~二.大宰府で任務を果たす

仕事って、望む仕事ばかりではない。真っ当な人間はどんな仕事でも一生懸命やる。

難しい仕事、自分に向いてない仕事ほど命じられたら一生懸命やる。仕事ってやってみないと分からない。来た仕事をどれだけ誠実にこなすか。

それによって気付かなかったことがいっぱい見つかるかもしれない。

 

江上剛さんの選択~一、任務を果たさず引退

会社に勤めるとか、官僚を含めて思うと、今の組織に生きてる人たちは「会社以外の人生はないよ。そこで仕事を果たさなければ、君は本当に駄目な人間だ。」と思い込まされてる面が強い。

全く違う人生や生き方もある。というメッセージを発してもらいたい。というのが江上さんの選択です。

 

倉本一宏さんの選択~二、大宰府で任務を果たす

律令官人というのは、天皇の命令で行くので、それに反することはありえない。

左遷と言ってるが、倉本さんは逆の考えをしていて、当時仲麻呂新羅と戦争を起こそうとしていて、北部九州は防衛で重要な地。

そこへ送られるというのはむしろ仲麻呂に信頼されている。内心煙たがっていたとしても、仲麻呂にさえ重用され、信頼される真備。それほどの人格と技術。むしろ喜んで行っていた。というのが倉本さんの考えです。

 

 藤原仲麻呂は、戦争計画を始めていて、しかも真備に対して具体的な指示も出しており、また真備の方からも「こうやってください。」という上申もしていたとのこと。

戦争前夜の状態だったそうです。

 

今で言うと、地方の支店長と中央の係長だと、支店長は出世だと思わず、本店にいたい人もいる。当時もいたかもしれない。

実学を学んだ人は実際に使ってみたいという欲望が絶対出てくる。特に軍楽を学んだ人、大村益次郎などがそう。本当にやったらどうなるのか、試してみたい。

というのが倉本さんの選択でした。倉本さんというより、完全に真備目線です。

歴史学者やから、よく知ってるし仕方ないか…。

 

私は、3人の選択の中で、話を聞いていて面白い意見だなと思ったのは江上さんです。

現代の感覚を持ち込んでいて、ちゃんとこの番組の目的である、自分だったらどうするか?を話してたと思います。

真備にものすごく親しみを感じてて、話も分かりやすかったし、選択も納得出来ました。

 

では、実際の真備の選択はどうだったのか?

 

大宰府左遷の命令を受けた真備は決断。真備は大宰府で対新羅の防衛責任者という職を全うする道を選びました。

 

真備の防衛築城技術

現在の福岡県糸島市にある標高416メートルある高祖山に、怡土城という山城を造ることにしました。

山城の入口に造られてた土塁の基礎工事の部分が、ものすごく硬いという事を、糸島市教育委員会の瓜生秀文さんが気づきました。

佐賀大学の分析によると、中から検出されたのはにがりの成分でした。

にがりは海水から塩をつくる時に出来る。それを土に混ぜるとセメントの様に硬くなり、凝固剤の役割を果たすのです。

怡土城の周りでは、海水から塩が多く取れ、真備はその時に出来るにがりを利用したと考えられるのです。

どのようににがりを土塁づくりに活かしたのか?番組では、図を示して具体的に説明をしていました。

 

瓜生さんは、中国では城壁に昔からにがりを使っていたので、真備はそのノウハウを見ていて、この土塁づくりに導入したのだと考えてらっしゃいました。

 

真備は、高祖山の斜面を効果的に活用されていて、さらに平野部も取り込む。それまでの日本の山城は、頂上部に土塁を巡らせる朝鮮式山城でした。

一方、怡土城では、山の頂上から平野部にかけ、土塁を斜めに巡らせる中国式山城の造り方でした。

瓜生さんは「斜めの山城から威圧感を与える。攻めるのに攻めやすい。攻めの城」と真備の設計理念があったのでは?とおっしゃっていました。

真備は、唐で学んだ築城法の多くを結集し、怡土城を造り上げたのです。

 

私も、確かに斜めだと見た目に迫力があるなぁと思いました。上の方に土塁がかたまってると、防御には強いだろうけど、攻めて来られる怖さはないです。

話をきいているだけでワクワクしました!!

 

逆転劇のはじまり

左遷にめげず、現地でベストを尽くす真備。仲麻呂はついに折れ、真備の左遷は終わりました。

 

天平宝字8年(764)光明皇太后崩御

 

仲麻呂の後ろ盾だった光明皇太后がいなくなったことで、仲麻呂の求心力が一気に失っていき、対新羅への計画も中止になりました。

 

天平宝字8年(764)真備70歳。孝謙太上天皇が「造東大寺長官」に真備を任命。真備を大宰府から平城京に呼び戻しました。

 

真備が復権し、立場を脅かされ始めた仲麻呂

天平宝字8年(764)9月。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が勃発、孝謙側と全面戦争になりました。

 

真備は孝謙軍の作戦参謀になり、仲麻呂軍と対峙しました。戦いはまず、琵琶湖の南岸である勢多橋を真備は先回りして焼き払い、東に進もうとする仲麻呂の動きを封じました。

この時、孝謙軍が使ったのが真備が唐から持ち帰った複合弓。全長200メートルを超える勢多橋の対岸から、来たる仲麻呂軍を攻撃するにはうってつけでした。

その後も逃げる仲麻呂軍を孝謙軍が先回りして追い詰めて行き、琵琶湖の西岸鬼江で、仲麻呂は斬られました。

天平宝字8年(764)9月18日。藤原仲麻呂死去。

 

仲麻呂と真備の因縁の対決はここで終了しました。

 

来村多加史さんは、真備の行動に無駄がなく、仲麻呂の動きを見ていると、焦りがよく分かるといいます。真備の書物で学んだだけではない実践派の知識人だと評しました。

 

来村さんの話を聞いて私は、仲麻呂が左遷しまくったことにより、真備が唐から得た知識を実践出来て、より強く鍛えてしまう結果になったと思いました。

まさかその力が自分に向かってきて、最終的に滅ぼされてしまうなんて思わなかったでしょう。

 

その後真備は軍師だけでなく、行政官としても活躍。右大臣にまで昇進。計5代の天皇に仕えました。

 

宝亀6年(775)10月2日。81歳の大往生を遂げました。

 

真備の人生を振り返る

真備の変遷を年齢でみてみると…

大宰府左遷 60歳

仲麻呂の乱 70歳

右大臣就任 72歳

と、かなりの高齢です。

 

江上剛さんから見た、真備の年齢での活躍

江上剛さんは知識だけじゃなく、実務の能力も高い 。企業に勤めてる人も参考にして欲しいと言います。

しかし70、80にもなって活躍するトップで、能力があるからいい。だけど現代は能力がないのに、70 、80でその地位にしがみつこうとする人が多すぎて、若い人の活躍がないから閉塞感が生まれる日本と言われる。新しいイノベーションが起きないって。

真備はそういうタイプじゃなかったということを言いたい。力説されていました。

 

江上さんの話を受けて、磯田さんは「唐に20年行ったおじいちゃんの方が最先端だった。」とおっしゃっていました。

 

里中満智子さんから見た仲麻呂の乱

里中さんは、仲麻呂はどっちが先に仕掛けたか分からない。

真備の目からみると、平和の日本の形を壊して、唐のようにしたいと見えたのでは?

仲麻呂は、光明皇后がご存命の時に色々と役所の呼び名を変えたり、「天皇」を「皇帝」に変えたりしていた俺は頭がいい。天才だ。国を引っ張っている。けれど「この国では真のトップにはなれない」ことが不満だったのでは?と推測されていました。

 

皇帝なら王朝交代がある。天皇にはなれないけれど、皇帝なら王朝交代があってもいい。仲麻呂は真の意味で頂点に立ちたかったのではないか?

という大胆な仮説を立てられていました。

でも、長い間唐にいた吉備真備からすると、仲麻呂の考えてる怪しい計画、本当に考えていたとしたら危ない事だ。ということで吉備真備が人生初めて自分から仕掛けた戦だったかもしれない。

自分の為じゃなく、ちゃんと理屈に合った考えで動いたんじゃないかと思う。とおっしゃっていました。

 

説得力のある話でした。

確かに仲麻呂は中国式に色々と変えてました。自分の名前も「恵美押勝」て変えて、元号も2文字じゃなくて4文字に変えていたし、それもこれも自分が上に立つ為だった…と考えれば辻褄が合います。

 

倉本一宏さんから見た吉備真備

吉備真備は中国の歴史書をよく読んでいて知っていた。だからこそ仲麻呂のことを「こういうやつはいずれ前のめりに倒れる」と見ていたのでは?

真備から見たら、歴史学ですら「実学」として学んでいたのでは?とおっしゃっていました。

 

これも説得力がありました。

 

真備と仲麻呂の違い

最後に里中満智子さんは仲麻呂と真備を比べて、仲麻呂光明皇后孝謙天皇など、色んな人を利用している。真備の人生は誰も利用していない。最終的に本当に人から信頼されるのが見えてくる気がする。

とおっしゃってました。

 

江上剛さんは「出世は目的ではなく結果。“野心なし”オーラを上手に出せる人。そういう意味では素晴らしい生き方をした英雄じゃないですかね。」と真備を評されていました。

 

倉本さんは、仲麻呂の乱があった天平宝字8年がターニングポイントだとし、正月に真備が引退表明をして平城京に戻されたタイミングで、9月に仲麻呂の乱が起きた事に注目。

それは引退すると言って周りに安心させたから。と、江上さんがおっしゃる“野心なし”オーラの裏付けをされていました。

しかし、反乱も予測してたかも?そこまで見える人間だとも言っていました。

 

最後に磯田さんは、大蔵省の蔵が焼けた時に、自主的に蔵が火事で焼けると予測して造っていた。という逸話を持ち出しました。

今回、水害にあった真備町のゆかりの人として取り上げた真備。真備に負けないように、防災もあらかじめ用意しておくってこと大事だと思いました。と言って番組は締めくくられました。

 

真備という人がどんなにスゴイ人だったのか?分かる濃密な回でした。

私は奈良時代が好きです。なのでのめりこんで観ました。

改めて今回吉備真備という人物を掘り下げてもらって、こんな魅力的な人物だと知って驚き、もっと知りたくなりました。

 

里中満智子さんは、「女帝の手記」で孝謙天皇のことを漫画にしてます。そのなかで吉備真備が出てきましたが、そこまで詳しくなかったので、今回の「英雄の選択」は面白かったです。

「女帝の手記」では、女性として生まれて、天皇にならなければならなかったこと。仲麻呂に利用されたこと。道鏡との関係など、ドラマティックに描かれています。

男性との関係も面白かったですが、天皇として生きることで結婚が出来ず、子供も持てなかった苦悩や葛藤も描かれていて、現代にも通じる悩みが描かれています。

同い年の異母妹が、40歳を超えて結婚し、子供まで出来たことに対する嫉妬など、身に詰まされるんですよ~。

歴史の本は難しいですが、漫画だと分かりやすくていいです。

読みやすいしね!

里中さんの奈良時代を描いた漫画のシリーズは好きです。

 

「女帝の手記」を探す

 

 

以上、英雄たちの選択 「右大臣吉備真備 左遷からカムバックした男」の内容と感想でした。

長文を読んでいただきありがとうございました。