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英雄たちの選択「日本のかたちを決めた女帝 持統天皇の真実」を見た内容と感想

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毎週水曜夜8時からBSプレミアムで放送中の『英雄たちの選択』。歴史学者磯田道史さんと杉浦友紀アナウンサーが司会の教養番組です。

www4.nhk.or.jp

 

 

歴史上の出来事を振り返り、もし自分がその立場だったら何を選択するか?

実際に選択されたものと、ゲストの人たちが考えた選択を比べたり、英雄が何故その選択をしたか?ということを話し合う番組です。

私はこの番組が好きで、木曜日に放送されていた時からほぼ毎週観ています。

 

9月23日に放送されたのは「日本のかたちを決めた女帝 持統天皇の真実」。

飛鳥時代の女帝・持統天皇(645-702)のことが取り上げられていました。

持統天皇は、高天原の神から皇位を受け継ぐという前代未聞の方法で即位。それまでの大王(おおきみ)から天皇(てんのう)へと統治者の概念を一変させた人物。

始まりは古代史最大の内乱である壬申の乱。

持統天皇は、夫の大海人皇子と共に謀(はかりごと)を巡らし、勝利に大きく貢献。

その後大海人皇子は天武天皇として即位。二人は共に新たな国造りをはじめた。

しかし天武天皇が崩御した後、後継者だった息子の草壁皇子も死去。

持統天皇は次の天皇を誰にすべきかの選択に直面した。

血筋から言えば、草壁の子・珂瑠皇子だが、まだ幼く他にも天皇の血を引く皇子たちはたくさんいた。

無理に珂瑠皇子の即位を推し進めれば、内乱が起きかねない。

持統天皇が下した決断はどういうものだったのかーーー??

 

ーーここまで聞いてワクワクしてきました!!!

天皇を父に持ち、天皇を夫に持つ女性が何を思って選択したのか??

面白そうな内容です!!

 

ーーー

昨年の令和の即位礼を見た磯田さんは、持統天皇の影響が大きく長く続いているんだろうと思ったとか。

1300年前の時代に作られたものが多く、基本フォーマットはこの時代に出来ていた。

持統天皇の脳内で作られたものの影響が我々にもある。と思ったそうです。

国号・日本や天皇号も持統天皇と夫・天武天皇の時代に出来たもの。

国家アイデンティティーを考える時、持統天皇を理解しないと日本という国が分からない。と思い今回取り上げたのだそうです。

 

ゲストの専門家の方々

磯田先生と杉浦アナウンサーに加えて、3人の専門家の方々もご出演なさってました。

  • 持統天皇を主人公とした漫画『天上の虹』の作者・漫画家の里中満智子さん
  • 文化人類学者で東京工業大学教授の上田紀行さん
  • 歴史学者で京都女子大学名誉教授・瀧波貞子さん

 

それぞれのお立場からのご意見をおっしゃっておられました。

 

持統天皇の生い立ち

645年

鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)のちの持統天皇は、現在の奈良県明日香村で中大兄皇子の娘として誕生。

この年は乙巳の変が起こった年。父・中大兄皇子が宮中で豪族・蘇我氏を謀殺したのだ。

皇太子となった中大兄皇子は次々と政敵を排除。権力を固めるためにさらなる策を講じる。

657年

13歳になった鸕野皇女を大海人皇子と結婚させる。

大海人皇子は、中大兄皇子と母親が同じ弟。中大兄は。自分の血筋に権力が集中するようにしたのだ。

この頃7世紀後半は、唐と新羅が手を結び、高句麗、百済を次々と攻め、滅亡に追い込んでいた。

663年

白村江の戦いで、倭国は半島の権益を守るために派兵したが大敗。

唐の侵攻を防ぐには中央集権国家で対抗しなければならない。そのためには強力なリーダーシップが必要であった。

668年

中大兄皇子は天智天皇として即位。大海人皇子は。側近として兄を支えた。

『日本書紀』では大海人皇子を「大皇弟」とし、政治のパートナーとしてだけでなく、次期天皇の有力な人物として書かれてあった。

671年10月

病床にいた天智天皇に呼ばれた大海人皇子は「後の事はお前に託したい。」と言われる。

大海人皇子は「私も病気がちでとてもお受けできません。大友王に全ての政務を執り行っていただくのがよろしいでしょう。」と答えている。

大友皇子は天智天皇の実の子だが、母親は豪族の娘で皇位継承者は大海人皇子の方が上だった。

天智天皇の真意は大友皇子への譲位にあると読んだ大海人皇子は、その日のうちに出家。政界から引退すると宣言。

さらに2日後。鸕野と一緒に降りしきる雪の中、大津の都を脱出。吉野へ身を隠した。

 

番組では、帝京大学名誉教授の義江明子さんは、そこに用意周到な大海人皇子の計算があったと指摘していると取り上げていました。

ーー当時の王位継承は、天皇決められるものではなく、群臣が決めるか納得して承認する必要があった。

大友の継承が実現するためには、大海人が自分で辞退する事でしかありえない。

大海人は天智を補佐してきた自信と経験があるので、場合によっては挙兵もありうると考え、準備の心づもりもあった上での吉野行きだったのでは?とおっしゃってました。

 

671年12月

天智天皇崩御。

672年5月

吉野にいた大海人皇子のもとに大友が兵を集めているという知らせがくる。

大海人皇子は挙兵に踏み切り吉野を脱出。

最初は20人ほどの兵だったのが、道中で息子の高市皇子、美濃の豪族などが合流。次第に軍勢が膨れ上がっていく…!

両軍は激突。壬申の乱となる。

大海人皇子の軍は大友皇子軍を圧倒。ひと月の激戦の後、大海人皇子が勝利した。

 

<<この戦いの間、鸕野皇女はどこにいたのか?>>

三重県桑名市の北桑名神社の鳥居の近くにある石碑には、"持統天皇御旧跡"と刻まれているが、持統天皇こと鸕野皇女は、戦地から50キロ離れたこの場所にいた。

鸕野皇女が産んだ草壁皇子の他、大津皇子、忍壁皇子を養育しながら大海人皇子を支えた。

『日本書紀』では、鸕野が戦局の立案に積極的に関わっていたと記されている。

 

673年

大海人皇子は天武天皇として即位。鸕野は皇后となる。

2人は新たな国づくりへと歩んでいくことになった。

 

専門家たちの持統天皇への印象

漫画家里中満智子さんは?

持統天皇の生い立ちを見て、漫画家の里中満智子さんは

「女性の天皇は中継ぎでしかないとか、持統天皇自身も父が天皇、夫が天皇ということでその七光りで天皇になったと言われてた面が多かったんですよね。だけど実際生涯を調べてみますと、実に実務に長けた方だなと。ちゃんと仕事をして実績を上げているという…。仕事のできる女って素敵だなと思いましてちょっと見方が変わりましたね。」と持統天皇に対する印象を語っておられました。

 

里中満智子さんの『天上の虹』は面白い!

私は、この里中満智子さんの『天上の虹』を全巻読みました。

これを読むとただ強い女性で天武天皇を支えてたのではなく、天武天皇の他の妻たちに嫉妬したり、後継者問題でも葛藤があったり、信じていた人に裏切られたり…。

偉人としてではなく、持統天皇を1人の女性として描いていて、現代に生きる私たちにも共感できる部分が多く、歴史上の人物を身近に感じることが出来ました。

持統天皇だけじゃなく、天智天皇と天武天皇二人に愛された額田王のことも描かれていたり、持統天皇の姉の大田皇女、子供の大津皇子と斎王になった姉との許されざる恋を描いたりなど、いろんな角度から見た物語を描いていて、最後まで飽きさせない面白い漫画でした。

昭和50年代から描かれているので、元の文庫本は古本でもなかなか出ていません。

数巻を1冊ずつにまとめた文庫本が新しく出ています!

元の文庫本よりサイズが小さくなって、絵も小さくなってますが、1冊に何巻かまとめているのでお得です!

 

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歴史家・瀧波貞子さんは?

次に、歴史学者で京都女子大学名誉教授。「持統天皇壬申の乱『真の勝者』」の著者である瀧波貞子さんは

持統は自らの意思で即位したという点ですね。従って大きく女帝の在り方を変えたこういう点に私は一番注目をしております。そのために持統は、皇位継承のルールも破っているわけです。まあ非常に新しい女帝であって、この国のかたちを決めた。そういう女帝ではなかったかな。という風に思ってます。」

 とおっしゃっていました。

自分の意思で即位した。というのがなかなかインパクトがあります!

中継ぎの天皇だと担ぎ上げられるイメージがありますが、持統はそうじゃなかったということですね!!

持統天皇がどんな人物なのか?期待が高まります!!

 

壬申の乱での鸕野皇女の役割

次に杉浦アナが、上田さんに「壬申の乱戦いが鸕野皇女になにをもたらしたのか?」と質問。上田さんは

「夫が戦っているのを後ろで支えてたっていうか、そこの戦地には行かず見てたっていう風に見られてるかもしれませんけど、私は相当関わっていたんじゃないかなっていう風に思うんですね。例えば犯罪捜査の時に誰が犯人かっていうので、動機は何だっていう風にあぶりだしていきますよね。この鸕野にとっては腹違いの、それも自分の血統よりも完全に身分の低い女から生まれた大友皇子のところに天皇が行く、私はこれは絶対耐えられない筋のものだという大きな動機がある。壬申の乱行くぞっていった時に、是非お願いします。女性のマインドコントロール力で夫を鼓舞したというか…。そういうような意味があったんじゃないかと思います。」

 

とおっしゃっていました。

 

このご意見は考えさせられるものがあります。

大友皇子は、鸕野皇女にとっては腹違いの弟。鸕野皇女自身は名門蘇我家の娘が母ですけど、大友の母は地方豪族の娘。

この弟が天皇になるなら、皇極天皇を母に持つ夫の方が先だろう…!という思いはあったのかもしれません!!

 

上田さんの話を受けて、里中さんが

「私はこのご夫婦は日本史上最強のカップルだって思ってるんですけれども、その強さの源はお互いを信じてることだと思うんですね。周りに群臣たちが誰もいないなかで、やはり自分の考えをまとめる。それを安心して話せる相手として強い妻がいたってことは、大海人皇子にとっては大変ラッキーだったと思います。」

と、大友に襲われるかもしれないと被害者のフリをして戦いをしかけるというのは、二人で練った作戦では?とおっしゃっていました。

 

里中さんの話を受けて瀧波さんは、鸕野皇女が躊躇する大海人皇子を叱咤激励したという話に異論を投げかけます。

「”ともに謀を定めた”っていうのは、私の考えでは壬申の乱最大の山場である不破と桑名の二面作戦。これを一緒にむしろ主体的に決めた、という。どういうことかと申しますと、不破を前線基地にする。そして桑名を策源地、後方支援です。不破へ物資を送って後方支援する。これが実はある意味では壬申の乱の勝敗を決める1つの大きな要因の1つだと思うんですけどね。」

 

と今度は瀧波さんの話を受けて司会の磯田さんが

「どうもこれ、夫婦で前線の作戦と後方のロジスティックスの補給・兵站を分けて、うまいことやってますよね。妻子を桑名に置いておけば、後ろから補給もいいですし、外交も出来ますし。負けた場合は船に乗ってさらに東国に逃げられますから。非常に理想的な作戦を夫婦でやってたと思いますね。」

とまとめておられました。

 

 

ーー鸕野皇女だけの作戦ではなく、大海人皇子と二人で意見を出し合って、各々の持ち場で作戦通り動いたってことでしょうか?

真田丸』の真田昌幸じゃないですけど、「各々ぬかりなく。」って言ってたら面白いですね!!

大海人皇子の皇子、大人の高市は大海人について行って、あとの幼い皇子たちは鸕野皇女が守って。どっちに何かあっても大海人皇子の皇子は残るようになってる!

『真田丸』の犬伏の別れみたいな話し合いをしたのかな??

敵は滋賀の大津宮にいるんだから、岐阜と三重で挟んでたのかな?道をふさいでたのかな?

面白いです!

 

天武天皇と鸕野皇后の国づくり

工房づくり

番組では、飛鳥池工房遺跡を紹介。

7世紀後半から8世紀にかけて稼働していたといいます。

工房には炉跡群があり、炭をたいて火を起こして、銅・鉄・ガラスなどを溶かしていた痕跡があるそうです。

天武天皇は金銀銅、ガラスを加工し、日常で使う道具や装身具を作らせていたと考えられている。

黄、緑、青、赤、透明などの色とりどりのガラスの宝玉が出土されているのが紹介されていました。

 

貨幣流通ー富本銭

平成11年。ここから出土したのが日本最古の貨幣と言われる富本銭。

この発見で、日本の貨幣経済が天武の時代に始まる可能性が高まったという。

『日本書紀』では天武天皇の命令として「今より以後必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ。」と記されている。

万葉文化館指導研究員の井上さやかさんのお話によると…。

当時は銀の塊が流通していて、富本銭は銅そのものの価値ではなく、貨幣として流通させるために作られたものだと考えられる。

全く意味合いが異なる。

中央集権国家をいかに樹立していくか?というのがうかがえるのが天武天皇の時代であり、富本銭に象徴されているといえる。

とのことでした。

 

この富本銭が出土された当時、友達と一般公開になったのを見に行きましたよ~私。

橿原まで行った覚えがあるんですけど、テレビに映ってた富本銭よりもっと薄くて汚かったと思います。

今回番組内で映ってたのはちゃんと保存用の容器が出来てて、キレイでした!!

 

律令の編纂

681年

鸕野皇后は天武天皇と共に大極殿に出御。律令の編纂を命じる。

飛鳥浄御原令である。のちの大宝律令につながる体系的な法典の編纂が始まった。

 

皇位継承争いへの策

679年

天武と鸕野皇后は6人の皇子を連れて吉野を訪れる。

6人の皇子とは…

  • 最年長で壬申の乱で父と一緒に戦った高市皇子(母は尼子娘)
  • 鸕野皇后が産んだ実の皇子・草壁皇子
  • 鸕野皇后の姉・大田皇女が産んだ皇子・大津皇子

他、天智天皇の皇子たちも呼ばれていた。

 

天武天皇は6人全員を皇后・鸕野皇后の子として扱うという吉野の盟約をかわした。

 

帝京大学名誉教授の義江明子さんによると…

それまでは后の宮と大王の宮や別で、それぞれの子供たちが別に暮らしていた。

母の違う子供たちは成育の場所も違い、背後の士族たちの勢力も違った。

吉野の盟約のようなパフォーマンスをやったのは画期的。

后の中で1人の人間(鸕野皇后)を特別な位置に付けて、集まった皇子全員を鸕野皇后の母ということにしてまとめていこうという新しい一歩を踏み出した。

とのこと。

 

この盟約で、草壁が皇位継承の筆頭とされ、他の皇子たちは皇位を争わないよう諭された。

 

上田さんはこの吉野の盟約について。

天武天皇は相当鸕野皇后に気を遣ってるとし、どれだけ皇后が重要な役目を占めていたか。壬申の乱の聖地である吉野まで行ってることを重要視していました。

 

瀧波さんは…。

吉野の盟約は持統天皇の強い草壁皇子に継がせるという強い意思で行われたものと考えている。

そして、天武天皇にとっても大きな意味があった。6人の皇子のうち4人は天武の息子。2人は天智の息子であるが、天武は壬申の乱で戦って皇位についた簒奪者。

その思いが一番強いのが天智天皇の2人の皇子たち。その子供達も含めて天武と鸕野皇后の子としてこれからやっていくということは、天武自身の簒奪者という汚名を帳消しにしたいという意味があった。

とおっしゃっていました。

 

瀧波さんの話を受けて、司会の磯田さんは面白いとおっしゃって、吉野盟約に参加した人たちのそれぞれの思惑について話をされていました。

  • まず鸕野皇后は草壁皇子を序列第1位にして、才能ある大津に見せつけたい。
  • 天武天皇は争って欲しくないからもうノーサイドだと言いたい。
  • 他の皇子たちにとっては争いがもしあっても、生存の保障が欲しい。

 

とそれぞれのメリットを話されていました。

 

 

ーーーこの吉野の盟約の話。

里中満智子さんの『天上の虹』では、他の皇子たちの母親の嫉妬も描いていたりして面白いです!

対して鸕野皇后自身は1人しか産んでないから、他の1人で何人か産んでる妻たちに引け目を感じたりして、それでもなんとか保ってる微妙な感じが描かれてます!

天武天皇の妻たちの水面下の争いが、現代の自分にも身近に感じて面白かったです。

 

天武天皇崩御後の事件

686年

天武天皇崩御。

鸕野皇后はすぐに天皇を置かず自ら代理として政務を執った。称制である。

 

ひと月後。

姉・大田皇女の子・大津皇子謀反の密告。

大津皇子は24歳。文武に秀でており、人望を集めていた。

鸕野皇后は大津皇子を逮捕して死を命じる。

吉野の盟約を違反したと厳しく処罰する事で内乱を未然に防いだ。

 

689年

鸕野皇后の実の子・草壁皇子が病死。

継承権第1位の草壁の死によって、皇位継承は再び混沌となる。

 

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天武・持統天皇陵(2003年に撮影したものです。)



鸕野皇后に迫られた選択

鸕野皇后は次期天皇をどうするか?選択を迫られる。

  1. 草壁の子・珂瑠皇子(7歳)の即位
  2. 他の皇子の即位
  3. 自ら即位

 

1は、天皇の即位に適した年齢は30代。草壁の子・珂瑠は血統は申し分なし。しかし7歳の珂瑠では幼すぎる。

2は、壬申の乱で共に戦い、実務にも長けており人望も厚い最年長の高市皇子が一番の候補に挙げられる。しかし他の皇子が即位すると、称制が出来なくなる。

3は、斉明天皇もかつて皇后で即位しており、前例がある。自分が皇位につくべきではないか?

 

専門家たちの選択は?

鸕野皇后に迫られた選択を、自分の立場ならどれを選ぶか?専門家たちに聞いていました。

瀧波さんの選択

まずは瀧波さんの選択は、3自ら即位。を選択。

ただし、あくまでも1番の草壁の子・珂瑠を即位させるために自ら即位する。

天武の子という近い血縁の皇子はたくさんいるが、珂瑠は天武の孫で血縁では遠くなって不利になる。しか鸕野が即位する事で皇子たちの継承権をストップさせてしまうことになる。

という理由で3を選択されました。

上田さんの選択

上田さんの選択も、3自ら即位。を選択。

この時期、鸕野はもう自ら政治を行うという自分の主体性に目覚めていたのでは?と推測。完全にメインプレーヤーになったのでは?

「血筋をつないでいくためのワンポイントリリーフというよりは、藤原京や大宝律令のようなプロジェクトも進んでいる。そこをある程度やり切るまでは、もう私がやらせてもらいます。」という結論では?ということで3を選択されました。

里中さんの選択

最後に里中さんの選択は、2他の皇子の即位。を選択。

選ぶとしたら高市皇子。壬申の乱での経験も豊富だし、年齢的にも経験があり、信頼していたと思う。

亡き夫・天武と築き上げたビジョン・都づくりに歴史書や律令制を整えることを側で見てきた高市皇子なら、この路線を継いでくれるだろうと信じるしかない。

という理由で2を選択されました。

 

 

ーー『天上の虹』の中でも、高市皇子は誠実で強く頼りになる皇子として描かれています。

里中満智子さんは高市皇子を高く買っておられるようです。

本当に漫画の中の高市皇子のような人なら、天皇なってもおかしくないと思うのですが、高市皇子はとても頭がいい。自分が天皇になる事のリスクもちゃんと考えている。

この皇位の件で、鸕野が高市皇子と話すシーンが『天上の虹』で描かれています。

面白いですよ!!

 

鸕野皇后の選択

690年1月

鸕野皇后は持統天皇として即位。

高市皇子は太政大臣として任命され、実務で天皇を支える体制が確立。

 

壬申の乱で勝った天武天皇のようなカリスマ性がないと自覚していた持統天皇。

群臣を納得させるためにある儀式を行った。

のちの三種の神器につながる剣と鏡が鸕野皇后に捧げられる。

天皇位についた持統天皇に群臣たちが列をなし巡って拝み、柏手をうった。

 

帝京大学名誉教授の義江明子さんは、群臣主体で王を推挙するという旧来のあり方だとすると、持統天皇の即位儀は王権主導で神として持統天皇は即位した

天皇となった持統に、翌日群臣が「おめでとうございます。」と申し上げていたとのこと。

全くひっくり返した即位儀を作り出した。とおっしゃっていました。

 

持統天皇のおくり名は、高天原広野姫天皇(たかまがはらひろのひめのすめらみこと)。

皇位継承の源を、高天原の神々に求めた。

 

即位後繰り返し行った吉野行幸

持統天皇が皇位についたのち、皇位継承の正当性を示すため、吉野行幸を度々行う。

壬申の乱の記憶を色濃く残す吉野。

天武天皇を祭る清見原神社には、天皇と吉野の深いつながりを表す行事が今に伝わっている。

国栖奏(くずそう)。毎年旧正月に奉納されている舞。

壬申の乱の直前に吉野に逃げてきた大海人皇子に、里人が舞って慰めたことが起源。

この舞の継承者で国栖奏保存会代表の辻内さんは、戦いの後も天皇家と国栖の人々との関係は続いたと語る。

大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位した時、国栖人を呼んで国栖舞を奏しなさいとお定めになられた。それ以来、宮中に約500年間参内奉仕をされているというお話でした。

 

持統天皇は、9年間で31回吉野行幸を行ったという。

天武天皇と一体であるということを、群臣にアピールしていたのだ。

 

 

ーーー群臣へのアピールもあったでしょうけど、持統天皇にとって吉野は夫婦で一緒に大業を成し遂げた偉大な思い出の場所。

大事な場所だからこそ何回も行ったのでは?と思います。

何か大きな決断をしないといけない時とか、迷った時に吉野に行けば気が晴れたのかもしれない。

あんな大きなことをしたのだから…と心を奮い立たせていたのかもしれない。

亡くなった天武天皇にすがりたい時に訪れたのが吉野だったのでは??

 

藤原京遷都

694年

藤原京へ遷都。

これこそ、持統天皇が天武天皇から引き継いだ大事業。

飛鳥の北西4㎞の場所に建設された藤原京は、耳成山、畝傍山、香具山の大和三山に囲まれた5.3キロの面積は、のちの平城京、平安京をしのぐ。

碁盤の目状に区画された敷地に、官庁や貴族の邸宅が建設されていた。

これには、豪族たちに飛鳥から藤原京への移住を促し、官位によって役職を与えて、天皇に奉仕させるという目的があった。

都の中心には天皇が政務や儀式を行う大極殿。

それまで寺院にしか使われていなかった瓦が使われ、新しい時代が来たことを人々に強く印象付けた。

 

藤原京跡から、旗竿を立てたと思われる柱穴が発掘された。

奈良文化財研究所の鈴木さんによると、『続日本紀』の大宝元年の条、元日朝賀の記事に、7本の幢幡と呼ばれる旗竿を立てたと載っているという。

発掘された7本の大きな柱の穴がその幢幡を示しているのだろうと思われる、とのことでした。

 

大宝元年の儀式では、天皇を象徴する3本足の烏をかたどった旗を中心に、太陽と月、東西南北を守る4つの神様の絵が描かれた旗が置かれて、万物の調和が表されたそう。57歳になった持統天皇は、文武百官外国の使節が参列するなか、華やかに正月朝賀の儀が執り行われた。

『続日本紀』では、「文物の儀。是に備われり」と記されていた。

 

持統天皇は、天武天皇から引き継いだ国づくりの完成を高らかに宣言した。

 

持統天皇即位に対する専門家たちの考え

持統天皇の即位について。司会の杉浦アナが専門家の方々に意見を求められていました。

上田さんの意見

上田さんは、持統天皇が自分自身を太陽となってみんなを照らしている。演技じゃなくて成りきっているように見えてしょうがない。

その自信が人間としてというより、スーパーパワー。超常的なものに支えられているのだといった高みを感じる。

とおっしゃっていました。

里中さんの意見

次に里中さんは、天智・天武の時代から続く外国との緊張関係が続いていた。

日本がちゃんとした国だと見せかけるようになるために、中国のトップが神から選ばれたという考えに沿って、神の存在があって今ここにいる。と見せかけることも外交上大切。

都も、律令も出来上がり、歴史書もほぼほぼ出来上がってきたこの時期。神の名のもとにことがこうなったと見せかけることは国際社会に対して、大変重要だったのでは?

という考えをおっしゃっていました。

瀧波さんの意見

次に瀧波さんは、非常にうまいやり口。ここで初めて「天皇は神である」という考えが出てきた。

持統は、草壁皇統という意識、観念を作り出す。

天皇家のはじまりは、天武ではなく草壁皇子。だから草壁の子・珂瑠皇子が正統という理屈を作り出す。

では天武天皇はどこへ行くのかというと、天武天皇は神と仕立て上げる。

そうすることで、みんなの心の底にあった簒奪者意識を全部帳消しにした

とおっしゃていました。

 

 

ーー瀧波さんのお話を聞いて、持統天皇のいじらしさを感じました。

なんとか天武と自分の子である草壁を、即位する事もなく亡くなった草壁を正当な後継者に仕立てたい。そして天武天皇を神にすることで天智皇統から奪った皇位を正統なものだと分からせたい。

夫と子供を正統な血筋とすることが、自分も肯定することになるんだという涙ぐましい努力が見えるようです。

実際、国のかたちづくりをしたのは持統天皇自身。

それだけでも認められていいはずなのに、それに加えて儀式で見せて群臣たちを圧倒する。

繰り返し儀式する事で、じっくりと固めていったのだと思うと、本当にいじらしく感じました。

 

磯田さんの意見

専門家のお話を受けて磯田さんは、「持統天皇が組み上げたシステムで日本の天皇の制度が長く続いた原因でもあろうと思うんですよ。儀式が高御座の上にあがったり、レガリア、剣とか鏡とか道具立てもしっかりしてますし。まあ見事なもんですよね。」とまずは持統天皇が作り上げたシステムを絶賛。

あと、王の三本柱である 軍事・建設・儀礼

女性は軍事がやりにくいが、建設と儀礼という実務のところで夫の意志を引き継いで夫以上にやったというのはスゴイ。とおっしゃっていました。

 

 

ーー儀式の面では見せかけるとか仕立て上げるとかいう言い方になってますけど、持統天皇のスゴイ所はやはり実務に長けていたこと。

建設や法令などの仕組みづくりをしっかりやったことが、群臣たちを納得させていったと思います。

女性なので腕力はなかったでしょうけど、政治は力は十分ある天皇だったんでしょう!!

 

珂瑠皇子即位のお膳立て

696年

太政大臣だった高市皇子が死去。

持統天皇は「後継者を固めなければならない。」という思いを新たにする。

草壁の子・珂瑠皇子の立太子を決断。

しかし年長者の皇子は他にもたくさんいて、壁となってのしかかる。

持統天皇は、群臣や継承権のある皇子たちを集めて話し合いをさせた。

天皇の御前で行われた会議。

それぞれの皇子を推す主張がなされるなか、大友皇子の子・葛野王が「神代以来、子孫が皇位を継ぐのが我が国の法である。兄弟継承では乱となる。」と発言。

皇子の1人が立ち上がって発言使用するのを葛野王が「持統天皇にとって子孫は珂瑠皇子しかいない。」と一喝。

持統天皇は、葛野王のひとことが国を定めた。と大いに褒めたという。

 

 

ーー壬申の乱で敗れた側の人間から継承者について語らせたのは見事です!

一番皇位簒奪を怒っていそうな葛野王が珂瑠皇子だと言ったら、誰も認めないわけにはいきませんよね~~。

持統天皇と葛野王は事前に打ち合わせしたのかな?

 

譲位後の持統上皇

697年8月

珂瑠皇子は文武天皇として即位。

群臣の推挙による兄弟間相続から、天皇の意思による直系相続へ。

持統天皇は皇位継承のルールを大きく変えた。

太政天皇の位につき、若く経験不足な文武天皇を後見した。

 

702年

遣唐使の再開。

唐に変わって建国された周の女帝則天武后に使者を送り、それまでの倭にかわる国号"日本"を認めさせた。

白村江の戦の敗戦からおよそ40年。

新興独立国家日本は、東アジアの国際秩序に船出した。

 

702年12月

持統上皇は58歳で崩御。飛鳥の天武天皇の隣に合葬される。

天武天皇の棺の隣に、火葬され骨蔵器に遺骨を納められて葬られたという。

持統天皇は天皇として初めて火葬された。

 

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天武・持統天皇陵の説明書き(2003年に撮影したものです)



 

皇位をめぐる争いをなくす

皇位継承のルールを変えたのは、これ以上無駄な争いをさせたくないという持統天皇の気持ちの表れでは?という杉浦アナ。

里中さんは、では皇位継承のルールなどこれまであったのか?というとなかったという。

兄弟に行ったり、おじさんに行ったり遠い親戚に行ったり…。

必ず血が流れて色んな事があって怨念が残り恨みが残り、悲しみが残った。

そんなこと言ってられない。世界の中での日本を考えなければいけない。

内輪揉めしてる場合ではない。シンプルに決められるなら決めておいた方がいいという機が熟していたころだったのでは?とおっしゃっていました。

里中さんの話を受けて上田さんは「持統天皇はものすごく血統というものに誇りも持っていた。そのことの血統主義みたいなところが、じゃあ自分が神になった時にそこからもうそれで行きましょうっていう自信となってある種の質的転換が図られたと思うんですね。」とおっっしゃられていました。

そして、それがそれからの日本社会、天皇家だけでなく日本社会を支えていく原理になっていく。

長男がいったん家や会社を引き継げは次兄弟にさかのぼるのではなくて、もうその長男の系統で引き継いでいく。それを認めることで無駄な争いを起こさない。といこの国のかたちを決めた。

このことがまさに持統天皇の御前会議で起こったことを思うと、感慨深いものがある。としみじみおっしゃってました。

 

 

ーー確かに、天智から弟の天武に行った時点でもうさかのぼることなくその子供が継いでいく。天智の皇統の人間がそれを認めてしまった。

この会議はそういう日本のあり方を決めてしまった。

こんな1000年以上も続くと持統天皇もまさか思わなかったでしょう!!

 

磯田さんは上田さんの話を受けて…

「これをやると日本社会兄弟はスゴイ不利益をこうむるから、ある一定度の不平等を認める社会になる。あともう1つが、父と先輩、時間的に先行する人間の教えをビシッと言うこと聞かせる縦社会になる。これが日本社会の中に入り込むきっかけの1つになることも考えておかなければいけない。」とおっしゃっていました。

 

 

ーー持統天皇には実の子が一人しかいなかったので、もしこれが草壁以外に実子が何人もいたら考えが変わっていたのでしょうか?

やっぱり草壁の子にこだわっていたのでしょうか?

持統天皇は則天武后に"日本"と認めさせたりして、グローバルな、考えが広いところもありますが、こと自分の家のこと、自分の夫や子供のことになると、途端に自分の血筋だけと視野が狭くなる。

他の妻が産んだ高市皇子を信じてはいるけれど、皇位は自分が産んだ子。

このアンバランスさが気になりました。

 

偉大な女帝・持統天皇

持統天皇について瀧波さんは

「よく悪くも一言でいえば"偉大な女帝”と言えますね。」とおっしゃられていました。

何かにつけ新しいものを取り込んでいった。30年ぶりに遣唐使を派遣し倭国という表記、国名の表記を日の本を変えてそれを中国に認めさせた。

中国との外交関係から独立宣言をした。

ある意味では国家のスタートを切った。と言ってもいい。

改めて偉大な女帝であった。という風に思う。とのことでした。

 

 

昨年の即位の礼の儀式や、直系の血筋に家を継がせるとか、年上の人の言うことを聞くだとか、今も残ってる日本のかたちが、もとをたどれば持統天皇が作り上げたシステムの乗っかってるということが分かりました。

 

女性の持統天皇が作り上げたシステムですけど、男性・葛野王たちがそれを認めたんだから、どこかでもう争いはしたくないって気持ちが男性たちの中でもあったのでしょう。

決めておいてくれた方が楽ですし!!

飛鳥時代に決めたことがまだ続いているなんて不思議な気持ちです。

 

私は単純に、持統天皇は自分と夫の血筋がただ続いて欲しいと思っただけなのでは?と思います。

それ多くの人の支持を受け、1000年以上も続いてしまった。

偉大な女帝・持統天皇。

面白く最後まで見させていただきました!!

 

以上、『英雄たちの選択「日本のかたちを決めた女帝 持統天皇の真実」』を見た感想と内容でした。

 

里中満智子さんが持統天皇を主人公に描いた漫画です。↓

 

 

 

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奈良時代の女帝・孝謙天皇を描いた里中満智子さんの漫画の感想も載せています。↓

 

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 藤原四家との争いに敗れた長屋王の話を描いた里中満智子さんの漫画の感想も載せています。↓

 

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