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100分de名著 吉本隆明『共同幻想論』 第2回「"対幻想"とはなにか」 を見た感想と内容

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毎週月曜夜10時25分からNHKEテレで放送中の『100分de名著』。

アナウンサーの安部みちこさんとタレントの伊集院光さんが司会の、1か月4回の放送で1作品名著を紹介。専門家の方に解説してもらう番組です。

www.nhk.or.jp

2020年7月に取り上げられた作品は、吉本隆明『共同幻想論』。

解説を担当された先生は、日本思想史家で日本大学教授の先崎彰容さん。

 

前に7月6日に放送された第1回「焼け跡から生まれた思想」では、吉本隆明の生い立ちから、戦中に信じていた皇国思想が敗戦後にひっくり返されたことに対する葛藤。

周囲が手のひらを返したように民主主義を受け入れていくのに、自分は前の思想に固執してしまい居場所をなくしていく。という流れをみました。

そして戦中の体制をなぜ信じてしまったか?を突き詰めた時に、物事の正しさ・状況を決定するのは、関係の絶対性からだという考えに行き着く。

物事の正しさは人間関係の中で決まるので、肯定的に見れば、人間関係は絶対に大切。逆に否定的に見れば、人間関係は自分の考えを束縛し思考を停止させる

人間が集団になると、共同幻想に巻き込まれてしまう。

人というのは、何かを極めて信じやすい生き物。だからこそ、他人との間で形成される価値観は「共同幻想」にすぎないと強く意識せよ。

 

という話をしていました。

 

第1回「焼け跡から生まれた思想」の感想はこちら。↓

www.lovetv.site

 

今回は7月13日に放送された第2回「"対幻想"とはなにか?」の内容と感想を書いていきたいと思います。

『古事記』を手がかりに、家族や男女の関係について考察し、"対幻想"という独自の概念を生みだした吉本隆明。

第2回は、この国家誕生の第一歩である"対幻想"について解説をしていました。

 

 

『共同幻想論』は第2部から読むのがおすすめ

『共同幻想論』は1全部で10章。

 1.禁制論

 2.憑人論 巫覡論 巫女論

 3.他界論 祭儀論

------ここからが第2部

 4.母制論 対幻想論 罪責論…「対幻想」から国家の誕生を明らかにする

 5.規範論 起源論…国家すなわち法の成立と邪馬台国の誕生

 

先崎さんによると、この本はあまり冒頭から読むことをおすすめしない本。らしく、第2部の対幻想のことを書かれている部分から読むことをおすすめする。とのこと。

 

エンゲルスと吉本の国家論を比較

この第2部対幻想論を書くのに、吉本隆明が意識した本が、マルクスと共に共産主義の基礎を築いたエンゲルスの『国家論』。

この本は、エンゲルスが経済的な面に集中して国家の成り立ちを説いた本。

吉本隆明は、このエンゲルスをかなり強く意識しながら、違う形で自分の国家論を形成していったとのこと。

  

ここで先崎さんが、国家の成り立ちについての、エンゲルスと吉本隆明の考えを比較して解説していました。

 

エンゲルスは原始の時代はみんなが集団で自由に婚姻関係を結べるということで、嫉妬がない社会、ユートピアがあった。としている。

原始の時代、<母権制>といって母方が重視されていた。

ところが、現在のお金にあたる家畜を飼育するようになると、男が女性に子供を産ませて財産を受け継がせる、資本主義社会が生まれる。

それの最も基本の形として、男性が外で金銭を稼ぎ、女性が家の中の事を守る。この専業主婦のような家族のイメージを、女性が社会に進出できない階級差=差別

その差別が、お金を持ってる人ともっていない人の差別にまで空間的に広がって、その差を見せなくするために国家という蓋をした

というのがエンゲルスの考え。

 

しかし吉本隆明は、嫉妬ない社会なんてなかったというところから始まる。

エンゲルスが排除したかった嫉妬という感情こそが、国家の成り立ちの基本をなしている。

 

---

<母系>制の社会とは家族の<対なる幻想>が

部落の<共同幻想>と同致している社会を意味する

というのが唯一の確定的な定義であるようにおもえる。

それだから<母系>制社会の本当の基礎は集団婚にあったのではなく

 兄弟と姉妹の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>と同致するまでに

<空間>的に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる。

----

 

人間2人3人集まれば、心の中を他人にかき乱される。

これを「エロス的関係(疑似性的関係)」と呼び、二人の関係が広がって血縁関係の兄弟姉妹、さらに村社会。という風に拡大していった最終的なところに国家が生まれる。

国家の本質は対幻想エロス的な関係が国家のむしろ最初。

非合理的な感情によって、人間の関係性を作っている

国家というのはそれの最も大きな単位。だと先崎さんは解説しておられました。

 

---ここまで聞いて私は、昔は兄弟姉妹、親子間でもみんなで所有し合ってたから嫉妬はなかったって言われるより、むしろ人間が2人以上寄り合えば嫉妬というのが生まれる。という考えの方がしっくりきました。

みんなで人を所有し合ってれば、むしろどっちの方が愛してるとか愛してないとか、より一層嫉妬が渦巻きそうな気がします。

今現在でも、兄弟の間で親からの愛情のかけ方が違うとか些細なことで揉めるのに、性的な関係があったらなおさらもっとキツイ嫉妬が渦巻きそうです。

私は、エンゲルスの「所有し合ってるから嫉妬なしでユートピア。」という考えは無理があると思いました。

 

『古事記』は対幻想の原型がある

吉本隆明は、『古事記』を読み込みながらそこに対幻想の原型があると考えました。

 

ーー

イザナギが穢れを落とすために禊をして誕生した神々。

左目からはアマテラス。右目からはツクヨミ。鼻からはスサノヲが誕生。

姉・アマテラスには高天原。ツクヨミには夜の世界。スサノヲには海原をそれぞれ統治するよう申し渡します。

しかしスサノヲだけがイザナギの命に従わず泣きわめくので、悪霊が騒ぎたて災いが発生。

イザナギが泣き続ける理由を聞くと「亡き母のいる根の堅洲国へ行きたい。」というスサノヲ。イザナギは出て行けと言います。

イザナギから追いやられ、姉・アマテラスに別れを告げるために高天原に駆け飛ぶ姿が荒々しく、山や川はどよめき、土はことごとく揺れるほど。

その様子に驚いたアマテラスは、弟が高天原を奪いに来たと思い、戦の準備をして待ち構えました。

戦闘態勢で迎えたアマテラスに、スサノヲは別れを言いに来ただけと言います。

邪心がないことの証明に、誓約(うけひ)をして正邪をはかります。

誓約とはお互いの身に着けているものから子を産んで、正邪をはかるもの。

こうして二人の間で疑似的な性行為が行われて、対幻想が生まれた。

誓約によって神々が生まれ、共同体が拡大して国家が誕生する過程をあらわしているといいます。

二人の間で生まれた対幻想が、共同幻想へと拡大していく。

と、吉本隆明は考えました。

ーー

 

ただ原始的<母系>制社会の本質が集団婚にあるのではなく

兄弟と姉妹のあいだの<対なる幻想>が種族の<共同幻想>に同致するところにあり

この同致を媒介するものは共同的な規範を意味する祭儀行為だと

いうことが大切なのだ。

 

村の幻想と疑似性的な関係を結ぶ巫女が社会をまとめる

先崎さんは、アマテラスとスサノヲという兄弟姉妹の関係について、国生み。国を生むという疑似性的な関係の話をしていること。がポイントだと解説。

そしてその際に何を行うか?誓約(うけひ)という祭儀的な行為をする。

その祭儀が、一対一の人間関係から生まれる対幻想に始まり、そこから拡大した家族や血縁関係へ。そして村、国家へと広がった時に共同幻想となる。

その共同幻想を成り立たせるために、祭儀が行われる流れを解説されていました。

 ---

対幻想(一対一の関係を基礎としたもの)

   ↓↓↓

 家族や血縁関係に幻想が広がる。

   ↓↓↓

  村や国家に分家したりすることで拡大。

   

この国家に上がって行く際に血縁関係以外の人も入ってくる。

 …ここで必ず亀裂や断絶がある。

 

この国家や村の中の共同の幻想を司っているのが、誓約などの祭儀お祭り

  • 儀式を行うと必ず豊作になる。というのを毎年確認するお祭り。
  • お祈りしてから山の中に入ると必ずイノシシがたくさん捕れる。

などとといった祭儀を行い、共有する事で村の秩序をが成り立って行き、幻想が成り立って行く。

 

さらに大きな組織になっていくと、巫女という存在が現れる。

吉本隆明によると、共同の村などで抱いている幻想と疑似性的な関係を結べる存在が巫女。

この巫女が神事・祭事を行うこと=村のやってはいけないルールや掟を社会に対して自分の口から伝える役割をする。

それによって社会全体がまとまっていく。

そしてそれが国家という一般の人同士のつながりを作っていく。

---

 

ここまでの先崎さんの解説を聞いて伊集院さんが

複雑なキャッチボールをしていく感じで、みんなの共同幻想になったやつを、もっかいその巫女っていうのを通すと、対幻想の形に戻せたりとか。

で、この巫女っていうのをコントロールする。巫女と誰か黒幕がちゃんと対幻想を共有できれば、巫女が言ったから年貢を上げる。みたいなことも全然できるわけですよね。そうやっていくと、とても国っぽくなってきますよね。

とおっしゃっていました。

 

これは分かりやすい!!と思いました。

巫女って神様に身をささげてお告げをしている。というイメージでしたけど、実はみんなの共同幻想を共有するために用意された人物。

巫女の存在で一気に統治する側、される側の人間関係の形ががっちり作られて、国が作られていくイメージが出てきました。

幻想を共有してるから国として成り立つ??

最初何を言ってるか分からなかったことが、なんとなくイメージ出来てきました。

 

吉本隆明は『遠野物語』はどう読み解いた?

次に『遠野物語』を吉本隆明がどう読み解いたか?の解説。

 

--『遠野物語』の鳥御前という男のお話ーーー

遠野の町に、鳥御前(とりごぜん)と呼ばれる山に大層詳しい鷹匠がいた。

ある日きのこを採るために山に入ると、赤い顔をした男女が話をしているのに出くわす。二人は鳥御前を見て、手を広げて制止したが鳥御前は構わず進んだ。

この二人の姿、振舞いから人間ではないと怪しんだ鳥御前は、二人に斬りかかった。

が逆に男に蹴られ谷底に落ちて行った。

気を失っているところを知り合いに助けられ、何とか帰宅。

「自分はこのために死ぬかもしれない。」と言っていた鳥御前。本当に3日後に死んでしまった。

家族が山伏に相談すると「山の神が遊んでるのを邪魔したことによる祟りだ。」と告げられる。

ーーーと話はここまで。

 

この話について吉本隆明は…

 

ようするに『鳥御前』は幻覚に誘われて足をふみすべらし

谷底に落ちて気絶し打ちどころが悪かったので

三日程して<死>んだというだけだろう。

けれど『鳥御前』が、たんに生理的にではなく、いわば綜合的に<死>ぬためには

ぜひともじぶんが<作為>してつくりあげた幻想を

共同幻想であるかのように繰り込むことが必要なはずだ。

いいかえれば山人に蹴られたことがじぶんを<死>に追い込むはずだ

という強迫観念をつくりださねばならなかったはずだ。

そしてこのばあい「鳥御前」の幻覚にあらわれた赭ら顔の男女は共同幻想の

表象にほかならないのである。

 

ーーとのこと。

 

死もまた共同体を一つにつなぐ働きをしている。

吉本隆明は『遠野物語』の分析によって、「死」というものが共同幻想の起源に果たす役割を説いたのです。

 

この部分の解説を先崎さんは

ポイントは、おそれっていう感情を共同体が共有してることが非常に大事であって、そうすると逆に実際は、致命傷じゃないようなかすり傷であったとしても、その共同幻想を共有してる社会においては、実は衰弱して亡くなっていく。なんていうことがある。」と解説。

 

先崎さんの話を受けて伊集院さんが、おばあちゃんが亡くなった後に、おばあちゃんがかわいがっていたインコが亡くなったのを例えに出して、共同体において円滑に死ぬ。ということを話していました。

遺族からしてみると、おばあちゃんが死んだドタバタにかまけてインコの世話を怠ったということなの。だけどこれをこんな事を言うと親戚でいられないのよ。だからおばあちゃんの道案内をするために、一番なついていたインコが天国に行ったね。という話をする。」と。

俺らはどっかにそうすることにおいて、家族なら家族。親戚なら親戚ということの共同幻想の中で、上手に死なせてあげるっていうことをやってますよね。

 

ーーー家族の死を病死とか、事故死という事実に目を向けず、おばあちゃんの死で忙しくて世話を怠った遺族を責めずに、視点をずらして物語を作り出す。よくある話だと私も思いました。

 

先崎さんはここで、第1回で出てきた関係の絶対性という言葉を交えて解説。

私たちはその関係の絶対性の中で、それぞれの物語を作って、それに乗っかることで逆にその社会自体を円滑に維持していこうっていう…。

冷静に考えれば普通の一般的な肉体的な死なわけですけど、それを共同体のルールの中に入れることによってその物語に乗っけることによって納得して亡くなっていく。というようなことがある。

 

結論としては、本当は単に滑って転んだ亡くなった、という話を納得させるための物語として『遠野物語』がある。ということでした。

 

ーー祟りがあったとか、死んだ人が恨まれてたからとか、全部そうだと思います。納得できない家族の死を、幻想で固めることで気持ちを納得させる。

 

私も父親の若すぎる死を、子供を残して家族の愛を知って、一番幸せなときに死んだからよかったんじゃないかって話をよく家族としています。

本当は病気で亡くなっただけなのに。

美談にしなければ、残された人たちの気持ちが収まんない!

 

この『遠野物語』の読み解き方は、自分も心当たりがあるのでよくわかりました。

 

吉本隆明とっての『国家の起源』

吉本隆明の国家に対するイメージというのは、非常に感情を重視して非合理なものが出発点なんだと考えたということが大事。と解説された先崎さん。

 

嫉妬や好悪の感情・尊敬や嫌悪の感情。⇒国家の起源

 

何故人が国家に対して、あれだけ肯定的になったり、否定的になったり感情を揺さぶられるのか?

というのが吉本隆明上手く説明できないんじゃないか?にあった。

 

「ある人が、勇気ある行為は、俺についてこいと言って勇敢な行為をする事ではなく、全員が走り始めたり、ある方向へ向かって行こうとするときに、ちょっと立ち止まろうよという風に、立ち止まることというのは、ものすごく一番勇気のあることだ。と言っている。

吉本隆明がやろうとしているのはまさにそれ。

国家なら国家に対して否定も肯定もあるんだけれども、じゃあその根源は何か?をゆっくり探ってみよう。ということを戦争体験から導き出して、1968年。戦争から20年以上経った時はじめて結果を出した。」

と、先崎さんは最後に吉本隆明の考えについてまとめてらっしゃいました。

 

 

もともと感情に基づいて成り立っている国家だからこそ、戦中の日本は国民がみんな心動かされて国家を信じて、同じ方向に向かって行ってしまったってことでしょうか?

戦争が終わって、みんなが民主主義へと手のひらを返したように進んでいく中で、取り残されたような気持ちなった吉本隆明さん。

自分自身、戦争を肯定してきた一人として、どうして戦争に向かっていく国家を信じたのか?その答えを見つけ出した執念を感じました。

 

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 第1回に比べて、第2回の対幻想のお話は分かりやすかったです。

『遠野物語』の家族の死という身近な話題が出てきたからだと思います。

こういう伝承話こそ、幻想の物語だと解釈する吉本隆明さんの考え。なるほどな~と思いました。

人間をコントロールする恐ろしさも、心を救ってくれるいい面も幻想にはある!

 

国家の起源は感情から。

最後はめちゃくちゃ納得しました。

 

 

以上、100分de名著 吉本隆明『共同幻想論』第2回「"対幻想とはなにか"」を見た感想と内容でした。

 

 

 番組のテキストが販売されています。↓