毎週月曜夜10時25分からNHKEテレで放送中の『100分de名著』。
アナウンサーの安部みちこさんとタレントの伊集院光さんが司会の、1か月4回の放送で1作品名著を紹介。専門家の方に解説してもらう番組です。
2020年7月に取り上げられた作品は、吉本隆明『共同幻想論』。
7月6日に放送された第1回「焼け跡から生まれた思想」の感想と内容を書いていきたいと思います。
解説を担当された先生は、日本思想史家で日本大学教授の先崎彰容さん。
この本が刊行されたのは、今からおよそ50年前の1968年。当時思想書としては異例のベストセラーになった本です。
熱烈に支持された一方で、難しすぎて最後まで読めないという方も多い本でもあります。
解説を担当された先崎さんは「とりわけ学生たちから圧倒的に読まれたという風と言われています。時代を震撼させた名著といってもいいでしょう。」とおっしゃられていました。
- 『共同幻想論』基本情報
- どうして今『共同幻想論』を読むべきなのか?
- 国家は共同の幻想?
- 個人幻想・対幻想・共同幻想
- 吉本隆明の背景
- 共同の幻想とは?
- 信じるとは何か?
- 『マチウ書試論ー反逆の倫理-』から吉本の考えを見る
『共同幻想論』基本情報
- 作者:吉本隆明(1924-2012)詩人で思想家
- 1966年から雑誌『文藝』に連載。加筆し68年に刊行。
- 『言語にとって美とはなにか』(1965)『心的現象論序説』(1971)と共に吉本の代表作
- 自身の戦争体験から"国家とは何か"という問題を徹底的に解き明かそうとした論考
- とりわけ『古事記』『遠野物語』を読み込むことで"国家の起源と本質"に迫ろうとした
先崎さんの解説によるとこの本の特徴は、人が人間関係を作っていくと、必ず左馬斬な問題、ひずみが起きてくる。その中での最も大きな人間関係としての"国家"について考えてみよう。究極の人間関係を見てみようという本。とのこと。
吉本は、外国思想や哲学を用いず、自前の言葉と日本の古典を使って自分の思想を紡ぎだしていった。というのがポイント。
『古事記』や『遠野物語』という古い話を遡ることによって、この日本という国がどうやってできたのか?ということを徹底的に遡って根本から考えようとした本。
だということです。
どうして今『共同幻想論』を読むべきなのか?
先崎さんは、今『共同幻想論』を読む意味とは何か?との安部さんの問いに「戦争体験と似たような状況がある。」ということ。
「戦前まであるいはコロナの前まで、私たちが当然だと思っていた生活の様式であるとか、それから価値観みたいなものが、一度完全に壊れるわけですね。じゃあ一旦粉々に砕けた価値観や秩序がゼロ地点になったところから、じゃあもう一回国家って何なんだろう。ということを真剣に考えた。というのが今日読むに値する一つの理由かな。という風に思っています。」という考えを述べられていました。
ーーー今ちょうど一気に今までの当たり前を変えていこうとしている世の中で、それまで何年生きてきたかなんて、経験なんて役に立たない、当たり前がなくなってます。
それを国家単位として考えるとはーー!!
どんな話なのか?前段階の話を聞いたところで、テレビを見ていた私の期待が高まりました。
国家は共同の幻想?
この本が刊行されていた時期は、日米安保条約を巡って、市民や学生たちが国家と対峙した60年安保闘争の時期。
吉本隆明は、この時彼らとともに権力と全面的に闘ったひとり。
その後、"国家とは何か?"をその始まりから思索。1968年『共同幻想論』を発表しました。
吉本は「国家とは、目に見える政府や機関ではなく、人々が共同に抱く「幻想」であると考えました。
番組では、俳優の柄本明さんが本文を朗読しました。
ーーー
国家は共同の幻想である。
風俗や宗教や法もまた
共同の幻想である。
習慣や民族や、土俗的信仰がからんで
長い年月につくりあげた精神の慣性も
共同の幻想である。
人間が共同のし組みやシステムを
つくって、それが守られたり流布されたり
慣行となったりしているところでは
どこでも共同の幻想が存在している。
ーーー
個人幻想・対幻想・共同幻想
目に見えない国家や法律。
それを当然あるものと思い、生きている私たち。
吉本は、それらを「幻想」と捉えたという。
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」という独自の概念を用いて、「国家」と「個人」の「関係」を再構築しようとしました。
こうして、これまでにない全く新しい国家論が誕生しました。
これら3つのキーワードについて先崎さんが解説されていました。
- 個人幻想…疑心暗鬼や疑い、憧れ不平不満などのイメージを抱く幻想。
- 対幻想…男女など、一対一の関係で夢見心地の時もあるし、ひどく喧嘩をする時もある。二人で抱かれる幻想。
- 共同幻想…村社会、何かの集まりから国家に至るまでの集団全体が熱狂などして抱く幻想。
吉本隆明の背景
吉本隆明の原点について紹介されていました。
- 大正13年(1924)東京月島で船大工の家に生まれる。
- 昭和16年(1941)12月8日 太平洋戦争開戦。東京府化学工業学校時代。応用化学を学ぶ。
<皇国思想を持っていた当時のことについて書かれた『高村光太郎』「敗戦期」の内容>ーー
わたしは徹底的に
戦争を継続すべきだという
激しい考えを抱いていた。
死は、すでに勘定に入れてある。(略)
死は怖ろしくはなかった。
反戦とか厭戦とかが、思想として
ありうることを、想像さえしなかった。
ーーー
- 昭和19年 東京工業大学に進学するも。戦争の悪化により徴用される。富山で新型戦闘機のロケット燃料づくりに従事。
そして、8月15日敗戦。
帰京する列車の中で、毛布や食料を山のように背負いこんで復員してくる兵士たちの姿を目撃する。
<この頃の心境綴った「マタイ伝を読んだ頃」から>ーー
この兵士たちは天皇の命令一下
米軍にたいする抵抗もやめて武装を解除し
またみずからの支配者にたいして
銃をむけることもせず
嬉々として食糧や衣料を山分けして
故郷にかえってゆくのは何故だろう?
そういうわたしにしても
動員先から虚脱して
東京へかえってゆくのは何故だろう?
日本人というのはいったい何という人種なんだろう
兵士たちをさげすむことは
自分をさげすむことであった。
知識人・文学者の豹変ぶりを嗤うことは
みずからが模倣した思想を
嗤うことであった。
どのように考えてもこの関係は
循環して抜け道がなかった。
このつきおとされた汚辱感のなかで
敗戦が始まった。
ーーー
今まで信じてきたものは何?
社会が180度変わって民主主義になっていく。
<後に『共同幻想論』のなかで語っている内容>
人間のさまざまな考えや、考えに
もとづく振舞いや、その成果のうちで
どうしても個人に宿る心の
動かし方からは理解できないことが
たくさん存在している。
あるばあいには奇怪きわまりない
行動や思考になってあらわれ
またあるときはとても正常な考えや
心の動きからは理解を絶するような
ことが起っている。
それはただ人間の共同の幻想が
生みだしたものと解するよりほか
術がないようにおもわれる。
わたしはそのことに固執した
ーーーー
この吉本の言葉を聞いて、伊集院さんは「すごくよく分かりますね。うまく飲み込めなかったんでしょうね。世の中がこんなに変わることっていう何かざわざわしたものをずーっと抱えてたんですね。」と感想を述べられていました。
先崎さんは「昨日まで正しいと思っていた世界が、今日になったら悪になってるというような。何が正しいのか、何が基準なのかというのがなくなった社会だった。にもかかわらず、多くの人が戦後は明るい世界である。民主主義がやってくる。と喜んだ人が多かった。この状態の時に吉本は、不器用に戦前の体験に固執した。」と解説されていました。
共同の幻想とは?
共同幻想とはなにか?
先崎さんは「私たちは会社の中であれ学校の教室の中であれ、その場の雰囲気や空気によって相手をいじめることに加担してしまったり、こういうことが起きる。であとから聞かれると、「おかしい。と思ってました。」とみんな答える。こういったクラスや会社の中で、みんなが思い込んでしまうものに飲み込まれる我々は何か?と考えた時にそれは、共同幻想であろう。」と解説されていました。
先崎さんのお話を聞いて伊集院さんが「今自粛警察みたいなものの中に、理にかなってるものも当然あるんだけども、それはさすがにやり過ぎなんじゃないの?と思いながらも、参加してしまうみたいなことって。あと、自粛警察をやってる時に、何かこうクラクラするくらい気持ちが良かったり。やめさせた時に。それにちょっと自家中毒みたいになってって…。エスカレートしていくみたいことはあるでしょう…。多分、そこに乗れない人だったんでしょうね。吉本さんは。なんだこれって。なったんでしょうね。」と、ご自身が思われたことを交えて例えをおっしゃり、その上で吉本隆明さんの考えを想像されていました。
私は、伊集院さんのお話でなるほど!って思いました。
あとで聞かれれば、おかしいと思ってましたってきっと答えるんでしょうけど、おかしいとは思いつつ、人と一緒にやってることが快感と言うか。
大多数の人と同じ考えにいると、肯定してくれる人も多いし、いつの間にか自分の考えにもなっていく。
不思議だとは思わなくなっていく感覚は分かります。
けれど、吉本隆明はそれがなかった人だった。
信じるとは何か?
昭和22年 吉本隆明は大学を卒業。戦後の混乱期で定職なく、町工場を転々とする。
高度成長していく社会で、居場所を見つけられないまま。
労働運動に明け暮れ、左遷され退職。という20代を送る。
かつて自分が愛した戦争を賛美していた詩人たちが、戦後手のひらを返したように平和や民主主義を説いている。
- 1956年『文学者の戦争責任』を発表し、思想家としてデビュー。(31歳)
綺麗な言葉を書いた詩人たちが、戦時中に常識だと思われていたことに奉仕してしまったのかという問題が、吉本をとらえる。
先崎さんは『共同幻想論』を読むにあたって、決定的になってくるキーワードを紹介。
戦前に何故自分の事を信じてしまったのか?なぜ当時の態勢を信じ、自分が信じてることに疑問を抱かなかったのか?
"信じる"とは何か?
という問題がまず出てくる。
逆にいうと、価値が崩れると、一体自分が次に何を目標にして生きていったらいいか分からない。だからこれを考えないと、大げさじゃなく、死んじゃうって感じがあったと思う。と先崎さんは解説されていました。
ーー死んでしまう、ぐらいに思ってしまうとはかなり深刻だと思いました。
自分のこれまでの価値観を崩されてどう生きて行っていいか分からず、そのままにしておくことは出来なかったのかな?と思います。
民主主義を手放しで賛美することに納得できない自分自身を、自分で納得させるには、信じるとは何か?を考える深く考える以外に、自分を救える方法がなかったのかもしれないです。
『マチウ書試論ー反逆の倫理-』から吉本の考えを見る
信じるとは何か?
新約聖書を読む吉本隆明。そこで描かれたのが『マチウ書試論ー反逆の倫理-』。新約聖書の「マタイ伝」についての論考。
イエスの弟子のひとりだったマタイ。人から嫌われる徴税人という職業で、ユダヤ教徒から迫害を受けていました。
イエスと出会い救われたマタイ。イエスが殺されたあと、ユダヤ教からキリスト教を切り離して、布教していく。
それはユダヤ教を否定する事でもありました。
結局それは、自身の存在を正当化しただけではないか?
そこには、自分の正義観を世界全体に広めようというマタイの野心が隠されてるのでは?
吉本隆明は、自分をマタイになぞらえ、戦後社会を批判する自分にも批評の眼を向ける。
ーー
人間の意志はなるほど
選択する自由をもっている。
選択のなかに、自由の意識が
よみがえるのを感ずることができる。
だが、この自由な選択がかけられた
人間の意志も、人間と人間との関係が
強いる絶対性のまえでは
相対的なものにすぎない。
関係を意識しない思想など
幻にすぎないのである。
人間の情況を決定するのは
関係の絶対性だけである。
ーーー
「人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。」
関係の絶対性という言葉について。先崎さんが解説されていました。
どれだけ自分が正しいと一人で信じていても、それが独善である場合がある。正しさというのは、他人との関係の中で決まっていくもの。
「この色は黄色。この色はだよね、そうだよね。」と関係の中によって決まっていく。
こういうことで考えると肯定的な意味は、「人間関係は絶対的に大切なんだよ。」という意味の絶対性という言葉になる。
一方で、関係の絶対性の否定的な意味。
状況に埋没してしまう。関係の中で同調圧力で何となく「この色は僕には黄色に見えるけど、全員が青って言ってるから僕も青って言っておこう。」みたいな感じ。
人間関係は絶対に自分の考えを束縛してくる。思考停止させてしまう。
という2つの意味が入っている。とのご説明でした。
先崎さんの解説を聞いて伊集院さんが「自分の関係の絶対性に持ってかれちゃわないようにするにはどうすればいい?」と質問。
「人というのは、何かを極めて信じやすい生き物。だからこそ、他人との間で形成される価値観は「共同幻想」にすぎないと強く意識せよ。と彼は言ってると思います。」と回答。
伊集院さんは「これはつらくて難しいなと思うのは、彼は自分すら違ってるかもしれないと思うことって、僕のハートだと壊れちゃう。心が壊れちゃうかもしれなくて…。」と不安を口にされていました。
それを受けて先崎さんは「僕たちは複雑に社会がなればなるほど、実は正解を求めたがるんですよ。こういう風な処方箋を出せば、社会が正しくなるとか。こういうものの見方こそが正しいんだっていうのに飛びつきがちなんですけれども、それを一貫して拒否したという精神の強靭さですね。それが吉本隆明のすごさなんですね。」と最後まとめられていました。
いや~。
最後の関係の絶対性という言葉だけはよくわかりました。
言葉の正しさは関係が決める。関係は絶対に大切なもの。
逆に、関係が同調圧力となって人を束縛し、思考を停止させてしまう。
その通りです!自分一人で言ってたって、正しさは決まらない。
嘘言ってるかもしれないし。人に認められてこそ、正しさが決まる。
逆にその人間関係が、考えることを停止させてしまう。
だからこそ、自分も社会も疑うのか~。
これはスゴイ人ですよ。吉本隆明さんは!
私ならおかしいと思ってても、右にならってると思います。幻想で何でも、変だと思ってた!とかなんとか言って。
でも吉本隆明さんはそれを否定。自分自身も否定。
辛いはずなのに考え続けた。
でもそれを多くの若者が支持したってことは、それだけ吉本の考えによって迷いが晴れた若者が多かったってことですよね?
人は否定しても、自分も否定できるかな?
吉本隆明さんだからこそできるのでは?
並の精神力じゃ伊集院さんの言う通り、心が壊れそうです。
自分まで疑うなんて。フラフラになりそう…!
余談になりますが…。
今、別の放送局でやってる『MIU404』というドラマで、他人も自分も信じないキャラクターがいるんです。
星野源さんが演じてる志摩ってキャラクターなんですけど、いつも冷静で死を恐れてないと言うか、死にたい感じ?そのキャラクターを思い出しました。
志摩も昔にめちゃくちゃに信じていたことがあったのかな?
こういう自分も人も疑ってかかるって、過去にめちゃくちゃに信じたことがあった人がそうなるんでしょうね。
だからこそ、社会がひっくり返って常識がひっくり返って深く傷ついたから、もう味わいたくなくて、自分も社会も疑うようになったのでは?
何もかも失った時に、人は何が何でも新しい何かを掴もうと必死になる。吉本隆明さんの強さは、失った人の強みなのでは?
と思いました。
ただただ圧倒された第1回でした。
人間関係のことまでで第1回は終わりましたが、国家にまで話は及ぶはず!
まだまだ序章です。
第2回は対幻想とはなにか?を考えていくようです。
以上、100分de名著 吉本隆明『共同幻想論』第1回「焼け跡から生まれた思想」を見た感想と内容でした。
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