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100分de名著 マルクス・アウレリウス 「自省録」第2回(他者と共生する)を観た感想とネタバレ

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4月の「100分de名著」で取り上げられていたローマ皇帝マルクス・アウレリウスの「自省録」の内容が、前回にも増してとっても面白かったんで、残しておきます。

 

毎週月曜夜10時25分からEテレで放送中の「100分de名著」。4月はマルクス・アウレリウスの「自省録」です。4月8日に第2回「他者と共生する」が放送されました。

www.nhk.or.jp

古代ローマ帝国五賢帝の一人マルクス・アウレリウスは、とても悩み多き人物。家族や家臣との人間関係。相次ぐ隣国との戦争。

困難の中でも「幸福になりたい。」と願ったアウレリウスが、自らの内面に向き合って夜ごと書き連ねた言葉が今も「自省録」として伝わっているのです。

ローマ皇帝が書いた物が、哲学書として2000年経った今を生きる私たちに生きるヒントをくれる本だというのです。

今回の指南役はギリシャ哲学を専門とする、哲学者の岸見一郎さん。「私たちはどうすれば幸福になれるか?」という視点から「自省録」を読み解きます。

 

人との関係は悩みの種。しかし生きる喜びや幸福もまた、人との関係の中でしか得ることは出来ない。

第2回は、アウレリウスも宮廷の中の対人関係に悩んでいたはず。彼がどんな風に切り抜けていったかを「自省録」で読み解く回です。

 

 

他者を許し、教える

西暦175年4月。アウレリウスが隣国の侵略を阻止する為、国境線での戦いに明け暮れていた日々を送ってた頃。「皇帝アウレリウスが病死した」との誤報が帝国内各地に駐屯していた武将に届きます。

東方シリアを統括していた武将・アウィディウス・カッシウスが自ら「皇帝の後継者」だと言い、兵士を連れてクーデターを起こす。

アウレリウスは北方の民族を講和を結んでからすぐにシリアへ向かいましたが、アウレリウスが着く前にカッシウスは部下に惨殺され、反乱は終息したのです。

けれど、実はアウレリウスはカッシウスを許すつもりでいて、カッシウスの首が届いた時は怒るよりもただ悲しかったのだといいます。本当は生きたまま捕まえたかったのです。

 

過ちを犯す者をも愛することは、人間に固有のことだ。

それは次のことをお前が思えた時にできるようになる。

すなわち、彼らがお前と同類であり、無知のため心ならずも過ちを犯すということ、(中略)とりわけ、お前に害を加えはしなかった。

なぜなら、お前の指導的部分(理性)を以前より悪くはしなかったから、ということを。

 

第1回の時も言っていましたが、アウレリウスは幸福に生きる為には、ロゴスに従って生きるべき。と考えていました。

ロゴスとは宇宙の秩序であり、宇宙の内にある人間も皆もロゴスを分有している。だから、カッシウスも自分も同じ「ロゴス」を持つ同類。と考えたのです。

同類なら、自分も同じ過ちを犯す可能性があるのに、自分のことを棚に上げて相手を怒ったり、責めたりは出来ないはずだ。といいます。

 

私は同類の者に腹を立てることも、憎む事もできない。

なぜなら、我々は足や手や瞼や上下の歯並びのように協力するために生まれてきたからだ。

だから、互いに対立することは自然に反する。

憤り、背を向けることは対立することである。

 

そうは言っても、他者に怒りを感じてしまう時に考えたこと。

 

これらすべてが彼らに生じたのは、彼らが善と悪について無知だからだ。

 

今回の朗読も俳優の渡辺大さんです。

 

協力し合うのが本来の状態

岸見さんによると、人間同士の関係を見る時、前回出てきた「ロゴス」を皆で分かち合っている状態で調和していると考えていたアウレリウスですが、その状態は完全なものではなく、正しい判断が出来るわけではない。と考えているとのこと。

過ちを犯した人も自分も同類であり、仲間。

自分も不完全な人間でしかない。

経験があろうと知識が多少あろうと、他の人より優れてるわけじゃないので、カッシウスと自分は対等であり、同じ人間である。

と考えられたからこそ、許せたんじゃないか?という岸見さん。

ーーーどうしてそう考えられるか?

対立している状態が本来のあり方ではなく、協力するのが本来のあり方。

そう考えると、対立している状態を改めていくきっかけになる。とおっしゃっていました。

人間は争うもんだ、と認めてしまったら現状を変える力にはならない。

 

本来人間は協力し合うもの。ということを岸見さんは地震などの災害にあった時の人間の行動を例に挙げて説明されていました。

災害に遭った時人間は、どんなにいがみ合っていても協力し、助け合う。

 

この話を受けて伊集院さんが「等生みたいな考えじゃなくて、「」なんだと思う。人間ていう弱い個体からすると、「本来人間には絆が…」とは僕は思ってないです。でもその方が「」っていうことには本能は気付いてるような気が。」という考えを述べられていました。

岸見さんも「道徳には落とし込まない方がいい。」と同調。

人助けてやるべきだ。助けるのがいい。とかそうじゃない。自然に助けようという気持ちが起こる。

とおっしゃってました。

 

これは分かりますね~。

私も。どっかで助け合いとかって清いもんだと思わなければならないとか感じてましたけど、いやいや助けないと自分一人じゃ生きて行けないから。

皆で生きていた方が得だから。一人でも多く助かって皆で協力して生きていくのが得だから助ける。

なんか汚い考えのように思ってしまいますが、その助けるのも本能で動いてるんだと思うと、汚くないんだなって思いました。

 

「善と悪について無知」という言葉について

誰もが自分に得にならない事はしたくない。でも判断を間違う。

岸見さんは、ネット上にとんでもない動画をアップする人を例に挙げて話していました。

動画をあげることで注目を得る。それが自分にとっての幸福だと思い違いをする。それも悪意ではなく、無知だからと考えると解決の方向の糸口が見える。

 

伊集院さんは、動画をあげる人たちは楽しんでもらいたいと考えやってしまうけど、見てる側は面白くないと思うし、危険も伴うという大きい「ロゴス」が見えていない。

でもそう思う自分だって、「楽しんで欲しい。」という大本のところで考えれば、そうなる可能性を持っていると思えば、これは許せるかもしれない。

 

岸見さんも伊集院さんお話を受けて、「そんなことは普通しないけど、本質的は同じような事をしてるという気づきがあれば、ただ糾弾するとかダメだという態度を取ることはきっとないだろう。」とおっしゃっていました。

 

他者の過ちについて具体的にどうするか?

過ちを犯した無知な相手に対してどうするのか?

アウレリウスはこう言います。

 

怒らずに、教え、そして示せ。

 

という答えが出ているようです。

 

お前が怒りを爆発させたとしても、それでも彼らは同じことをするだろう。

 

番組ではここで解説が入りました。

怒ったところで相手は改心するどころか、余計にムキになって同じことを繰り返す。それにさらに怒って相手を押さえ込もうとしても憎しみや反発が膨らむだけで、対立は深まる。

ーーーではどうすればいい?

 

復讐する最善の方法は、自分も同じような者にならないこと。

 

復讐をすすめているわけではないです。怒りをぶつけられてもやり返さず、喧嘩の勝負から降りることが問題解決となる。というのです。

さらに

 

人間は互いのために生まれた。

だから、教えよ。さもなくば耐えよ。

 

ーーーここの「耐えよ」は怒りから自由になる、ということらしいです。

 

次の結論を心に留め、心を和らげよ。

理性的な生き物は互いのために生まれたということ。

我慢することは、正義の一部であること。

人は心ならずも過ちを犯すということを。

このことを知っていれば、その時、お前はすべての人に優しくあるだろうから。

 

親子関係を例として

岸見さんは、親が勉強しない子どもに「勉強しなさい。」と怒ることを例に挙げ、怒れば怒るほど子どもたちはムキになる。とおっしゃっていました。

しかし勉強しない子どもも勉強するべきだと思ってる。でも「お前に言われたくない。」と思っている。

関係が良くなければ、正論を言われれば余計に反発する。だから怒りをぶつけることに全く効果はない。

 

司会の安部アナは、お子さんとの会話で「ゲームは宿題が終わったらね。」と極めて冷静に教えている。でもお子さんは「知っとるし。」と答える。怒りを抑えているという安部さんは「耐えて、示す」という言葉の意味を疑問に思ってらっしゃいました。

 

岸見さんは安部さんのことを基本的に「お子さんを信頼していない。」と言い、教えれば時間がかかるかもしれないけど、きっと理解してくれるという信頼感がない。と言います。

お子さんは叱られるのが怖いから「明日から勉強する。」と言うかもしれないけれど、また同じことが起きる。

それは、叱り方の程度が足りないんじゃなくて、叱る方法そのものが問題があると考えた方が理論的。だと言います。

伊集院さんは「全国の子どもを怒っている親御さんは「子どもを信頼していない」というより、「社会を信頼していない」。今勉強する気が起こらなくても社会は勉強以外で何かはかってくれるのか?を信用してないんであって、もしかしたら「ロゴス」に対して正しい動き方をしてない。」と言います。

岸見さんは、「勉強するしないは子どもの自由だけど、この社会で勉強しないとことは非常に大変なことになるのだと教えることはできる。」とおっしゃってました。

 

「耐えよ」という言葉

さらに親御さんにとってしんどい「耐えよ」と言う言葉について。

ーーーこれは怒りの感情から自由になるということ。

怒っても意味がないということをまず知って欲しい。言葉で説明すれば分かるかもしれないという信頼感を持って欲しい。と言う岸見さん。

あとは子どもの人生。もちろん親として協力は出来る。力にはなるけれど、親がどうする事も出来ないと思った時に、怒りの感情から自由になれる。

ということだとおっしゃていました。

 

これは難しいです!

私は子どもがいませんが、職場で年の離れた新人さんが入って来て仕事を教えましたが、思うようにいかず、怒りがわきました。

どうする事も出来ない。と思って怒りから自由になるなんて発想はなかったです。なんとかしたいと思ってしまいました。いつまでも仕事覚えてくれないと自分の負担が増えるからです。

自分は相手が仕事を覚えることに協力してるのに、向こうがこっちの仕事の負担を軽くすることに協力してくれないことに怒りを感じました。

感謝されたいと思ってはいないですけど、教えた分は返して欲しいと思いました。

 

次の話はその見返りを求める気持ちについてが書かれてある内容です。

 

人間関係をこじらせるもの

誰かに親切にした時、その人に感謝してもらうことを勘定に入れがちな人がいる。

別な人は、そのようなことはないが、相手を債務者と見て自分がしたことを意識している。

さらに別の人は、自分の行為をある意味で意識することさえなく、房をつけ、一度自分の果実を実らせた後はそれ以上他に何も求めない葡萄の木に似ている。

 

ーーー「債務者」とは?

自分が誰かに親切にした事を忘れずに恩を着せる人のことを指す。

例えば、ある人が会社の同僚に旅行のお土産を渡して皆に感謝されたとする。しかし旅行に行った同僚からお土産を貰えなかった時、「あの時お土産をあげたのに。」と妬んでしまう。

こんな人を「債務者」と呼ぶのです。

 

アウレリウスは葡萄の木のようにありたいと考えていたといいます。

葡萄は立派な実をつけ人を喜ばせても、誰からも感謝されず、何も求めない。

 

賞賛はそれ自体で完結する

「承認欲求」も人間関係をこじらせることがあるという。

およそどんな美しいものもそれ自体で美しい。賞賛を自分の部分として持たず、それ自体で完結する。

賞賛されるものがより悪く、あるいはよくなるというものではない。

 

賞賛されたからといって、その人の価値が高まるものではない。 逆に批判されても価値が下がるわけでもない。

自分や自分の行為の価値は、誰かの評価とは関係ないのです。

しかし批判されると人は怒りや憎しみを抱き、相手と対立してしまう。

 

ーーー対立しない為にはどうすればいいか?

 

絶えず波が打ち寄せる岬のようであれ。

岬は厳として立ち、水の泡立ちはその周りで眠る。

 

対立を避けるために

見返りを求めて得られなかったら怒ると、必ず対立が起こる。対立が起こる状態が自然に反した生き方になる。賞賛を求める生き方も自然に反した生き方になるという岸見さん。

でもみんな承認欲求が強い。自分が書いた物は人に読んでもらわないと困る。

 

伊集院さんはグルメサイトを例に出して、自分はあんまり美味しくないと思ったのに、評価が高い店だと「美味しかったのかな?」と思うし、逆に自分は美味しいと思ったのに、評価が低いと「美味しくなかったんだ」と思う。この現状は「ロゴス」が乱れてるのでは?とおっしゃっていました。

伊集院さんの話を受けて岸見さんは、

自分の価値も他人の価値も自分で判断できなくなっている。

他者からの評価や賞賛は価値とは関係ない。というのをおさえてないと、人から振り回される。とおっしゃっていました。

 

賞賛されないと適切な行動をしなくなるのは不自然

「褒めて育てる」という言葉があるが、岸見さんによると「褒めてはいけない」なぜなら、褒める人は叱る人。

例えば、勉強していい点数を取ってくると褒める親は、点数が良くなければ叱る。子どもは褒められたいから勉強するようになる。

廊下にゴミが落ちていたとして、褒められて育った子どもは拾う前に一瞬周りを見る。ゴミを拾う自分を誰かに見られてれば拾う。褒める人にコントロールされているのです。

誰かから認められるとか関係なしにゴミを拾うことが自然。人の役に立つ。他者に協力している事になるとアウレリウスはあらわしている。それが自然な生き方。

賞賛されなければ適切な行動をしないという生き方は不自然。

 

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私の話で言うと、トイレに入った時。特にトイレなんてよく汚れてます。洗面台の蛇口の周りとか、便器の周辺、とても汚い時があります。

個室の中なんて誰にも見られないです。もし最初から汚れていたとしても、私は自分が汚したと思われたくないので、入った時よりキレイして出るようにしてます。

それは、自分が汚したと思われないようにするっていう、自分に得になる行為なんですけど、次の人が気持ちよく入れたらいいなぁと思ってやってます。

---こういう解釈で合ってるのかな??

 

外から来るのは水の泡立ち?

対立しない為の最後の文章にあった「水の泡立ちはその周りで眠る。」という部分。

 

我慢するとは違う。怒り憎しみというネガティブな感情は望ましくない。無理やり抑えるのではなく、そういう感情すら必要としなくなる状態に持って行かないといけない。

 

復讐したらやり返せ。怒りは怒りで返せ。と言ってては家庭も世界も平和にならない。

 

というのが岸見さんが言うアウレリウスの言葉の解釈でした。

 

むずかしい…!!

外から来る色んなものを雑音として、波や水の泡の様に消えるからと思って怒りに耐えることができるかな??

人に期待する分、信じてる分、すぐに結果が出ないとショックで怒ってしまいます。

アウレリウスの様に思えるのかな??

 

あと、「債務者」って言葉面白かったです。

自分はお土産あげたのにあげた人からもらえない。とか、よくある話だと思いました。

逆に欲しくないのに、押し付けてきて感謝しろと思われるのは嫌だと思ったり。あれもこれもみんな賞賛されたい。認められたい。っていう承認欲求が人間関係をこじらせるんですね~。

私も後輩に仕事教えて、早く覚えて私を助けて欲しいとか、これも承認欲求なんですよね?そんなこと思いもしませんでした。

 

第2回「他者と共生する」。色々気付かされた面白い回でした!!

次回、第3回「困難と向き合う」です。

人間が耐えられないようなことは何一つ起こらない。

さぁ、どんな話になるんでしょうか?とっても楽しみです。

 

この番組にはテキストがあります。⤵

 

「自省録」です。⤵