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100分de名著 夏目漱石スペシャル 第2回「夢十夜」を観た感想

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毎週月曜夜10時25分からEテレで放送中の「100分de名著」。3月は夏目漱石スペシャルです。3月11日に取り上げられたのは、第2回「夢十夜」でした。

近代日本文学がまだ方向性が固まっていない時代に描かれた、夏目漱石の、タイトル通り10編の作品から成る短編集です。

前回に引き続き、指南役は東京大学教授で英文学者の阿部公彦さんです。

第1回「三四郎」の回も感想を書いてます。↓

 

www.lovetv.site

 

 

第一夜

まずは、第一夜のお話を俳優で演出家の長塚圭史さんと、同じく俳優の藤井美菜さんが朗読されました。

 

「こんな夢を見た」

という書き出しで、女性の死の間際に遭遇した話が書かれていました。

女性に自分を大きな真珠貝で穴を掘って埋めて、星の破片で墓標を作ってください。とお願いされる主人公。

 

「百年待っていて下さい。百年、私の墓の傍に坐って待っていてください。

 きっと逢いに来ますから。」

 

と言い、涙を流したまま、もう既に亡くなっていた女性。

 

言われた通り墓の傍で待つ主人公。来る日も来る日も女性は来ない。だまされたのでは?と考えます。

 

すると石の下から斜に自分の方を向いて青い茎が伸びて来た。

見る間に長くなって丁度自分の胸のあたりまで来て留まった。

と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと瓣(はなびら)を開いた。

自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花瓣(はなびら)に接吻した。

百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。

「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気が付いた。

 

番組では、冒頭の女性の言葉を藤井さんが丁寧に朗読してました。

 

阿部さんによると、これは新聞小説だったそうです。この「夢十夜」を「不安小説」と名付けていました。

「言葉の冒険をしている。そんなこと普通言うかねって言う事も結構言うし、でもなんだかそれが意外にフォローされちゃって、言うかもしれないっていうふうに思えてしまう。」

阿部さんはまず、出てくる言葉について話をされていました。

次に女性が死んで、植物として復活する。人間が人間でないものになる。これは、昔から物語にあるパターン。

なぜ人間じゃないものになるのか?

「人間と植物と動物と、みんな1つの物語の中につなぐと、世界全体が見えてくる。世界を理解したい。コスミック(宇宙的)に一つの物語の中で全体を理解する。神話的な思考といえる。」と解説。

 

阿部さんは、漱石は自由に、関節をゆるくしたら何が出て来るだろうと楽しみながら書いていて、そのおかげで、第一夜はロマンティックなものが出てきているとおっしゃっていました。

漱石の理想とする一つの女性像が出ている。悲劇的な最期を迎えたがために、余計映しく見えるような女性。逆に言うと美しい女性はやっぱり悲劇的に死んでほしい、と思っていたのかもしれない。」と漱石の心情まで推測していらっしゃいました。

 

ーーー

阿部さんの解釈が正しいなら、夏目漱石という人が、かなり女性に対して幻想というか、願望が強い人なんだなぁと思いました。

百年後に百合となって蘇って、自分のもとに現れる。自分は百年生きてるってところがまた面白いというか…。

百合って「」年後に「」うですもんね!

ものすごくロマンティックな人ですよね~!!百合って花の名前があって、そこから考えたんじゃないかな?って私は思いました。

小説を書く時に百合を見て、この百合は悲劇的に亡くなった美しい女性の生まれ変わりでは?とか妄想して、漱石はキスをしていたかもしれないですね!!

自分の解釈で、自分が照れてしまいました。

今初めて自分がこの「百合」の解釈をしたように思いましたが、ああ、でもどこかで誰かがそういう解釈をしていたのを覚えていただけかもしれません。

 

第三夜

冒頭はまた「こんな夢を見た。」で始まります。

 

六つになる自分の子どもを背負っている。何時の間にか眼が潰れて青坊主になっている。何時潰れたかと聞くと「なに昔からさ」と答える子ども。

眼が見えないはずの子が、田んぼにさしかかった事を、鷺の鳴き声で気付く。

我が子ながら怖いと感じる主人公。どこかに捨ててしまおうと遠くを見ると、大きな森があった。あそこならと考えた途端、背中から笑う声がした。

笑った理由を聞いても答えない子ども。逆に「重いかい?」と聞いてきた。

 

「重かあない」と答えると、「今に重くなるよ」と云った。

 

子どもを背負いながら道を進む。

 

「もう少し行くと解る。---丁度こんな晩だったな」と背中で独言の様に云っている。

「何が」と際どい声を出して聞いた。

「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲ける様に答えた。

すると何だか知ってる様な気がし出した。けれども判然(はっきり)とは分らない。只こんな晩であった様に思える。

「此処だ、此処だ。ちょうどその杉の根の処だ」

雨の中で小僧の声は判然(はっきり)聞えた。

「御父さん、その杉の根の処だったね」

「うん、そうだ」

と思わず答えてしまった。

「文化五年辰年だろう。お前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」

おれは人殺しであったんだなと始めて気が附いた途端に、背中の子が急に石地蔵の様に重くなった。

 

長塚さんの朗読が終わると、伊集院さんが「これは不安の中でも、恐怖寄りかな。」と感想をおっしゃっていました。

 

阿部さんによると、19世紀ぐらいからのイギリスロマン派あるいは、ヨーロッパ全体で「子どもを聖なるものとみなす」傾向があり、子どもから色々学べるという、一種の神話みたいなものがあったそうです。

それが逆転した邪悪な子ども、悪魔としての子ども。これもよくある。

どちらも深層心理あって、「怖い子どもが自分より多くのことを知ってて、自分に何か怖いお告げをする。しかもそれが自分の子どもという、底知れぬ恐怖につながるような気がする。」と第三夜で出てくる子供の解釈をされていました。

 

伊集院さんは、文中の「何が」という際どい声を出した。という、際どい声」という表現にしびれたとおっしゃっていました。「大きい声」とか「震える声」なら分かるけど…と。

その言葉を受けて阿部さんは、丁度こんな晩だったな」という、うっとりしたような感じの独言に対して何が」と強めに割って入る。「何がって知ってるじゃないか」という3つのセリフが続く。

この3つのせりふがすごい緊張感だと思う。とおっしゃられていました。

自分が何か言い当てられたと感じたが、何を言い当てられたかは分かっていない。という状態。

 

伊集院さんは、「ここ「焦った」と書くと完全に何を言い当てられたか分かってるって。「際どい」ってまだ分かんない。俺らにもおとっつあんも分かってない感じとか、それはちょっとすごいな。」と漱石の上手い言い回しに感心していました。

阿部さんは「漱石が関節をゆるくしたおかげで出てきた、なんかこう自分から変なものが出てきた感じというのを、表現していると思う。」と解釈されていました。

 

ここで出てくるのがこの言葉。

ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)…わからないものをわからないまま受け入れる力

阿部さんによると、この言葉は、19世紀、ロマン派の時代にジョン・キーツという詩人が、シェイクスピアに対して言った、1回だけ手紙で使った言葉で、謎めいて分からないものを、分からないまま受け止めて表現する事が出来たところがすごい。と書いたものだとか。

分からないものを、どうにかして自分の理屈で組み伏せて表現するのではなく、受け入れてしまう。ということ。

「要するに、これ、こういうことねって言ってしまうと、全部、だしも何もなくなってしまう。油揚げのカスみたいなのしか残んなくなっちゃう。」という例えをされていました。

 

ーーー

この言い方をどうしてとか、どういう意味かとか、答えを出すんじゃなくて、そのまま受け入れるのが、この話を読む時に大事な事らしいです。

う~ん。できるかな?

答えを知りたいと思うのが人の心情だと思います。

何も知らないはずの子が自分よりよく知っていて、逆に教えられるのを恐怖と取るか、新鮮だと喜ぶか…?

とか、どうしても考えてしまいますが、答えを出すと面白くなくなるんですよね…。

正直、読むのが難しい作品だなぁと思いました。

 

第七夜

大きな船に乗っている主人公。毎日毎夜黒い煙を吐いて、凄じい音を立てて進んでいる。どこへ行くのかは分らないので、船の男に西へ行くのか?と聞くと、逆に「何故?」と聞かれる。主人公には落ちて行く日を追っかけてるように見えたのです。

しかし男に笑われただけで答えてもらえなかった。

いつ陸に上がれるか分からないので、船にいるよりは身を投げて死んでしまいたいと思い始める主人公。

 船に乗っているのは異人が多く、主人公は話しかけられても答えませんでした。

 

自分は益つまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。

それである晩、思い切って、海の中へ飛び込んだ。

ところがーーー自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。

心の底からよせばよかったと思った。

けれども、もう遅い。自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。

只大変高く出来ていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。

然し捕まえるものがないから、次第々々に水に近附いて来る。

水の色は黒かった。

自分は何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。

 

どういう解釈をするか?

阿部さんは「西向きの船なので、西洋に向かって行く日本。西洋の文明に憧れている漱石そういう物語の寓意として読む事が出来る。」というのがまず出来るとおっしゃられていました。しかしそういう話だけじゃなく、間に色んなよく分からない話が入って来る。

よく分からないところに翻弄される感覚がむしろ面白い作品。とおっしゃってました。

 

夢十夜」を読むヒント

次に、阿部さんが夢十夜の読み方のヒントを4つ示してくれました。

象徴解釈的に読む

象徴解釈の破綻を楽しむ

象徴解釈の及ばなさを楽しむ

因果律と時間感覚の無効性を楽しむ

 

象徴解釈的に読む、という点ですが、これは第三夜の子殺しの話は、漱石が養子に出されたということを背景として読むと、自伝として読む事も出来る。

 

象徴解釈の破綻を楽しむ、というのは、寓意的な枠組みからあふれ出る部分があるので、そのフィットしない部分を楽しむ。

 

象徴解釈の及ばなさを楽しむ、というのは、第七夜の西向きの船の話でいうと、船の進路を聞いて、怪訝な顔をされるまでの話はまだ分かるが、そこから色んな人が出てきて、そのうちに自分は何だかつまらなくなってきて…という「そのうちに」というのが、「夢十夜」的。何かよく分からないうちに色んな事が起きて翻弄される…というのが「及ばなさ」。意味付けられない。

 

因果律と時間感覚の無効性を楽しむ、というのは、動機がない。時間の順番が逆になってる。というのをあえて注目する。ということ。

 

阿部さんの話を聞いて伊集院さんが、「そのままで楽しみましょう。受け入れましょう。というのは、色んな事に通じてて、それが出来ないからストレスが溜まってる気がして。必ず「それは面白い話なの?」「悲しい話をして。」「この出来事はよかったの?悪かったの?」ってやりがちなんだけど、ちょっとその全部入ったものの状態できちんと留めておくみたいなことは、もっともっとあっていいような気がします。」とおっしゃっていました。

 

ーーーー

この最後の伊集院さんの言葉は、グッときました。

私も話を聞いていて、オチがなかったりするとイライラしたり、何が言いたいの?とつい詰め寄ってしまうところがあります。答えがあってるのか?どうかは気になります。

分かりやすい方が安心できますから。

今回取り上げられた「夢十夜」は、私にとっては修業のような作品かもしれません。あえて答えを出さずに読むのは耐えきれないと思います。

でも、そういう読み方をする作品もあるんですよね…。分からないと途中で投げ出してしまいそうです。

好きな人は好きなんだろうなぁ~?と思いました。

 

次回は、第3回「道草」。漱石の自伝的小説を取り上げるそうです。

夢十夜」よりは分かりやすいのかな?

 

この番組にはテキストがあります。↓

夏目漱石スペシャル 「文豪」を疑う /NHK出版/日本放送協会
by カエレバ

 

夢十夜」です。↓

文鳥/夢十夜 改版/新潮社/夏目漱石
by カエレバ

 

 

 

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