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英雄たちの選択「戦国ミステリー 斎藤道三はふたりいた!?~下克上の真実~」の内容と感想

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毎週水曜夜8時からBSプレミアムで放送中の「英雄たちの選択」。歴史学者磯田道史さんと杉浦友紀アナウンサーが司会の教養番組です。

www4.nhk.or.jp

 

 

歴史上の出来事を振り返り、もし自分がその立場だったら何を選択するか?

実際の選択されたものと、ゲストの人たちが考えた選択を比べたり、英雄が何故その選択をしたか?ということを話し合う番組です。

私はこの番組が好きで、木曜日に放送されていた時からほぼ毎週観ています。

 

3月4日に放送されたのは「戦国ミステリー 斎藤道三はふたりいた!?~下克上の真実~」。

現在放送されている大河ドラマ『麒麟がくる』で本木雅弘さんが演じられている斎藤道三。

番組の冒頭で、一介の油売りから美濃国の国主にまで成り上がったと言われている戦国時代を代表する“下克上”を象徴する人物。現在放送中の『麒麟がくる』のワンシーンを交えながら紹介されていました。

織田信長、明智光秀に大きな影響を与えた人物と考えられているが、斎藤道三について残されている資料が極めて少ないとのこと。

信長の一代記『信長公記』では、裏切りや暗殺を繰り返し、釜茹でや牛裂きといった残酷な刑を好んだと書かれているそうです。

しかし最近見つかった資料で、斎藤道三の新たな人物像が浮かび上がってきた。

これまで道三一代で成り上がってきたと思われていたのが、道三の父・長井新左衛門尉と親子二代による下克上だったというのが分かってきたというのです。

父の後を継いで、美濃の国主に成り上がったのが道三。

 

ゲストの専門家の方々

磯田先生と杉浦アナウンサーに加えて、3人の専門家の方々もご出演されていました。

  • 一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員で、斎藤氏の研究をされている歴史家石川美咲さん
  • 明治大学准教授で経済学者の飯田泰之さん
  • 奈良大学教授で城郭考古学者千田嘉博さん

という専門家の方々を迎えて、斎藤道三という人物に迫られた選択を検証、分析をしていました。

 

これまでの道三の通説を覆す史料

これまで斎藤道三一代で美濃の国主に成り上がったとされてきましたが、その通説を覆す史料が発見され、道三の人物像が一変したとのこと。

滋賀県草津市立草津宿海道交流館にその史料である近江国の守護大名・六角氏の書状「六角承禎書写」が残されており、番組で紹介されていました。

その史料に斎藤道三の真実が隠されていると指摘するのが、今回番組に出演されていた専門家の一人である石川美咲さんです。

永禄三年七月二十一日に、近江の六角承禎が息子の家臣たちに宛てて出したこの書状は、斎藤道三の息子・斎藤義龍について書かれたもの。

 

  斎藤氏の先祖は、京と妙覚寺の僧侶。

    ↓

  「西村」と称し美濃国で侍となる。

    ↓

  出世して「長井」と名を変える。

  

といったことが書かれていて、ここまでは他の史料でも斎藤道三の来歴として書かれているそうです。

 

石川美咲さんは、この書状の中にあった「新左衛門尉」という人物の名前の前にある"祖父"という文字に注目。

 

  斎藤義龍の祖父道三ではない道三の父??

 

ということになる。

 

石川さんは「道三がひとりで国盗りをしたんじゃなくて、そのきっかけ。道を整備したのは実は新左衛門尉(道三の父)だった。」と言うのです。

 

これまでの研究では、道三が一人で美濃の国主に成り上がったと言われてきたが、この書状の発見で、親子二代での国盗りだったのでは??となってきました。

 

ここまでを見て心躍りました!!!

一代で成り上がったからこそ、強い男・道三のイメージが余計に膨らんでいました。

しかし、え?お父さんが先に美濃に入って地ならしをしてたの?とちょっと強いイメージが少し私の中で弱まりました。

 

道三の父・新左衛門尉の経歴

ここから道三の父・新左衛門尉の経歴を紹介してました。

 

  法華宗の僧侶 

    ↓

  寺を出て美濃で油を売る商人になる

    ↓

  美濃の守護代斎藤家に出入りするように

    ↓

  行商の知識が重宝され斎藤家の家臣・長井家に武士として取り立てられる

    ↓ 

  名前を「西村勘九郎」と改名

    ↓

  戦で武功を上げ「長井」の姓を与えられた  

  

まず最初の油売りの商人とはどんな人だったのか?

かつて明かりをともす油・エゴマ油の生産地だった京都府大山崎町にある、大山崎町歴史資料館で当時の油売りについて話を聞いていました。

製造販売を担っていた人たちが、神社に仕える「神人(じにん)」と呼ばれる人々。

この人たちには、各地に行ける特権があり、特に西日本でエゴマを優先的に買い付けに行ける特権を持っていたそうです。

当時は関所があり、淀川水運や瀬戸内海の港の利用料を本来なら払うべきところを、この人たちは山崎の油売りは免除されていたんだそう。

 

これはお得!!

自由に行き来できるうえに、通行料も免除してもらえるだなんて色々動き回れます!

神社の人となると、迎え入れる人のガードも緩くなると思うし、いいことだらけでは?と思いました。

 

新左衛門尉の商売は?

道三の父は、法華宗の商人ネットワークで商売をしていたと考えられる。

そして、その商売をする中で目をつけたのが美濃国だった。

美濃は、京都から関東へ行く間に位置し、多くの街道が通じている交通の要衝。

豊かな穀倉地帯の濃尾平野。長良川が流れる肥沃な土地。

 

行商の知識を武器に名前を変えながら、着々と地位を上げていったとのことでした。

 

ーーなんか聞いてるだけで楽しくなりますね!!

絵に描いたようなサクセスストーリー!!

時間はかかったでしょうね~。

 

道三が登場!?

次に、道三の父が出世できた理由について。

斎藤氏の研究家・石川さんは、現在の美濃市一帯を領有したことが大きかったのでは?と考えてらっしゃるとのこと。

美濃氏は、当時から上質な和紙・美濃和紙の産地。

道三の父は、経済的拠点を押さえて紙の流通を支配する事で大きな利益を得ていたとみられる。

当時の文書の中には、長井新左衛門尉の名前がいくつも出てきて、道三の父が次第に力をつけていったことがよくわかるのだそうです。

 

しかし天文2年にその名前が一切出てこなくなった。

天文2年に長井家から出された書状に「長井新九郎規秀」という署名が出てきてて、番組では実際にその書状が映されていました。

石川さんは「この「長井新九郎規秀 花押」という人物こそが後の斎藤道三であり、長井新左衛門尉の息子です。ですので天文2年というのが画期。親世代から子の道三時代が始まる。」と言います。

 

この天文2年前後に病死したと思われる道三の父。

この突如登場した「長井新九郎規秀」がのちの斎藤道三。

 

いよいよ主人公が出てきました!!!!

話が面白くなってきました!

 

美濃の当時の権力図

当時の美濃の権力構造。

  1. まずはトップの守護の土岐氏…土岐頼純・土岐頼芸が家督争いを続けてて不安定。
  2. 2番目の地位の守護代の斎藤氏
  3. さらに下の斎藤氏家臣の長井氏…ここにいたのが長井新九郎規秀!父から長井のナンバー2を引き継ぐ。

 

道三はここから暗躍を始める。

まずは長井家の当主を殺害。自ら惣領となり家を乗っ取る。

   ↓

土岐頼芸と結託。頼純を追放。頼芸を守護に押し上げる。

   ↓

頼芸から守護代の「斎藤」の姓を使う承認を得て「斎藤利政」と名を変える。

 

父の死からわずか4年で美濃の守護代になり、美濃のナンバー2にまでのし上がった。

 

 『麒麟がくる』の始まりでは、もう既にこれだけのことをやってのけたあとの話だったんですね!!

怖~。

 

道三の人物像の変化

ボンボンだったのでは?

番組ゲストの石川さんは、親子二代説のよって道三の持つめちゃくちゃやった人物という人物像から「斎藤道三って、実はボンボンだったんじゃないか?」と、父がレールを敷いた後を、着実に出世していった人物ということで「親の七光りを多分に利用できた側面も持った人物だった。」と、人物像が変わったと話されていました。

 

ボンボンとか親の七光りとか、なんと現代的な解釈!

確かにそうですよね~。お父さんがまずだいぶ地ならしした後ですよね。

長井家の当主を殺すとか、お父さんの代では出来ないことです!

だって長井家の人がいなけりゃ、まず美濃に入り込むことも出来なかったんですから!!

それを何食わぬ顔で殺せるところが苦労知らずというか…。ボンボンが考え付きそうなショートカット法。時間をかけないやり方って言うんですか??

ようやるわ、怖い!!

 

時代の線引きを感じる

次に2人目のゲスト経済学者の飯田さんは、小説で読んだ経験から一代説の印象が強かったそうです。

しかし「むしろ二代説の方がすっきり行くなという部分もありまして。斎藤道三お父さん。僧侶であり商人。もう1つは実務を担当する下級の武士であり、いろんなことを同時にやるってすごく中世っぽい人。」と道三の父を評していました。

道三のことは戦国大名としてのし上がっていく人。

その2人の間に時代の線引きを感じる。とおっしゃていました。

 

飯田さんがおっしゃった線引きはかなり納得しました!!

やり方が違うんですよね~!!

父は着実に功を立ててのし上がり、息子は殺してでも蹴落としてのし上がる。

全く性格の違うやり方。一人の人物がやったとは思えない行動です。

とてもしっくりきました。

 

道三の父は時代が求めた人材

次に城郭考古学の第一人者・千田嘉博さんは、古代からの京都を中心としたしょうえん荘園ネットワークが崩壊。改革をしなければいけないという時代。とこの時代を分析。

さらに道三の父は勉強して知識もあるし、その上油売りの商人もして経済や流通のことも実務として知っている。

なんとかしないと美濃の国治まらないというそういう困っちゃってる時に、そういう技術や知識を持っているというので、まさに「求められた」というんですかね、時代の求めた人材が、(斎藤道三の)お父さん。」と評していました。

 

時代の求めた人。ってスゴイですね!!

実務だけの人もいる。知識だけの人もいる。その両方を兼ね備えている人は道三の父だった。ってことですね!

 

当時の身分の高い人の話

続いて磯田さんが千田さんの意見に加えて、当時の状況を説明。

細々とした民政をやるのは、家柄の良いお坊ちゃんには恥ずかしい仕事で、実務担当者に任せていたそうです。

物を送る、税を取る、訴訟の対応。細かく文書に書いて神社と付き合うことを人に任せて、自分は和歌を詠んだり絵をかいたりしていた。

そしてだんだん実務担当者が、看板だけもらって出来るということに気付き始め、現在の高級官僚が出馬するような感覚で、家を一個ずつ取っていった…。と話してました。

 

そういえば、『麒麟がくる』の土岐頼芸も絵ばっかり描いてました。

暇なのかと思ってたのですが、実務は他の人にやらせてたんですね!!

本当はやらなけらばいけない仕事があったんだ…。

 

次々名前を変えたのはどうして?

西村→長井と名前を変えた道三父。そして道三は長井→斎藤と変えました。

いきなり斎藤になるよりは、西村から長井。力を認められて徐々に上がって行くところにステップアップの巧みさが表れている。と石川さんがおっしゃられていました。

続いて磯田さんは、「名跡」を継ぐ事で、それと同じように処遇される。「家柄ロンダリング」をしている。と説明していました。

このことによって「流動性が非常に高くて、養子を取ったりして、日本は完全な世襲制でも能力主義を"家柄ロンダリング"で補っている。」とおっしゃてました。

 

生まれた家で仕事も決まる。って世の中で、代替わりするうちに能力がない人間が出てきてそのまま継いでいそうだけど、実際は能力の高い人物を養子にとって能力主義も補ってる。ってことですね!

江戸時代も武士の家に能力ある農民が養子に入るってこともよく行われてたみたいですし、実は中身はちゃんと能力ある人に家と仕事を継いでもらってるんだ~。

 

道三の父は場所選びも長けていた

名跡選びに長けていて、自分の能力を発揮する家を選んでどんどんステップアップした道三の父。

石川さんはそれだけじゃなくて、場所選びにも長けていたと指摘されていました。

例えば、田んぼの真ん中でタピオカミルクティーを売っても全然売れない。

ある程度銭を集まる場所を選択しなければいけない。そこで紙の集積地。長良川の川湊に目を付けた。

 

飯田さんは、商売と金融の知識長けていてさらに、文書作成技術に長けていた新左衛門尉だからこそ、当時の政治の米であり経済の米である紙。紙に書かれた物が絶対。吸い寄せられるように美濃に赴いた人。と分析していました。

 

文書書くために紙を買いに美濃に行き、どんな場所かを知ってたんでしょうね~。

全ての知識をフル活用してる感じがします!!

なんだか道三よりカッコよく思えてきました。

 

土岐氏の拠点・大桑城へ行く千田さん

美濃の守護土岐氏の城だった大桑城。政治的な拠点となっていました。

番組では、城郭考古学者の千田嘉博さんが実際に大桑城を見に行ったのを放送していました。

かつて岐阜県山県市にあった大桑城。斎藤道三の主君・土岐頼芸の居城です。

www.kankou-gifu.jp

 

道三によって守護になれた土岐頼芸ですが、国主を狙う道三との関係は次第に悪化。

道三からの攻撃に備えて、土岐頼芸は大桑城の守りを固めていったといいます。

 

余談ですが、大桑城跡を登る千田さんのお顔がとてもいい笑顔で、見ていてほっこりしました。

本当にお城が好きなんだろうな~というのが伝わってきました。

 

当時最先端の技術で作られた大桑城

当時最大級の守りの工夫が施されていたと言う千田さん。

山を上りながら敵からの侵入を防ぐために道を補足した土橋や、道を塞ぐ石垣跡などを見つけて分かりやすく説明してくださっていました。

これらの高い防御施設を見て、交通の要衝に建つような城ではなく「専守防衛のような所でして、土岐氏が斎藤氏を非常に恐れていた。という道三の力が圧倒的だということがこの立地からも実感できる。」とおっしゃっていました。

大桑城は、道三がいた稲葉山城との間にいくつもの山があり、侵入するにはこの尾根筋を通ってくるしかない。という位置関係。

もし攻撃するにしても時間がかかると思いました。

 

だいぶビビってたんですね~。土岐頼芸。

 

さらに大桑城の山麓には、土岐氏が越前の朝倉氏や近江の六角氏など四つの国の加勢を受けて築かれたとされる四国堀という堀を作っていました。

道三側の侵入を防ぐ深さ5m、幅5mほどの大きさで、千田さんが堀の中になって両腕を伸ばして大きさを比べていました。

何人も人間が入れるぐらいの大きな堀でした。

 

土岐氏と朝倉氏は友好関係を結んでいたので、支援を受けることが出来た。

が、斎藤道三は下剋上で成り上がってきて、元々あった権力権威を否定してのし上がってきた存在。

周りの国の人たちとしても簡単に土岐氏が道三に負けられると困るということから支援したのでは?と千田さんは説明されていました。

 

ーー四つの国が協力するなんて、よっぽど警戒されていたんですね!道三は。

土岐に協力させるだけの人望とか、力があったのではなく、道三への反発が強かっただなんて、古い権力者たちが抵抗するあがきみたいなものを感じます。

大きな堀でした。

 

道三の稲葉山城の城下町は? 

次に道三の居城・稲葉山城(現在の岐阜城)はどうだったのか?

岐阜市教育委員会の内堀さんは、道三時代の石垣の一部を後に岐阜城と改めた信長が使用しているのでは?という仮説を立てていると紹介していました。

斎藤道三の築城技術が高かったというのです。

「道三の稲葉山城という歴史があって初めて織田信長の岐阜城が生まれたんじゃないか?という仮説が次第に明らかになりつつある。」とおっしゃっていました。

信長への影響は城郭だけではない。

道三は城下町に城からのびる「百曲」という道に大桑城から町人を移動させたそうです。

城からのびた主要な道を中心に町が形成されるタテ町型城下町。

道三は町の外側に市場を建設して、信長の楽市楽座より先に自由な商いがされていたといいます。

信長がのちに経済重視。流通重視で城下町づくりをするお手本が道三だった。千田さんは語っておられました。

 

ここまで聞くと、どうして斎藤道三がこれまであまり注目されてこなかったのかがとても不思議です!

美濃一国だけの支配で終わったから?

史料が少ないから?

自由な商売は信長からだと思ってました。信長が改革して後の人がそれをマネしてると。でも美濃一国だけの支配をしていた斎藤道三が先だったとは!!

 

ドラマより実際は熾烈な争いだった土岐VS道三

今まで悪いことをして治めていたというイメージが強かった道三だが、混乱した美濃をどうやって治めていくか?

単に軍事て拠点ではなく経済の中心にもなっていて、混乱した美濃をバランスよく押さえて治めていく人が出来た人。だとおっしゃってました。

一方、土岐氏の大桑城も実際に見に行ってみると、石垣など当時としては最先端のもの。

「簡単にお茶に毒を入れて国がとれるっていう実権が奪えるって感じじゃなくて、土岐氏の争いっていうのは、今まで思っていた以上にですね、これは熾烈を極めていたし、美濃の武士たちもどっちへついていこうかというので、道三なかなか大変だった。」

と大桑城の守りの固さを実際に見てきた千田さんが語っておられました。

 

『麒麟がくる』では、十兵衛に尊敬されない美濃の国主だった土岐頼芸でしたけど、実際は周辺の国々に力を借りて、道三と匹敵するぐらいの力を持っていたんですね!!

稲葉はじめとする国衆たちが全然道三に味方してくれないのが、全然理解できなかったですけど、この番組を見て土岐氏の強さを知り納得出来ました。

 

周辺勢力から攻められる道三

天文13年(1544)。

美濃から見て南の尾張織田氏、北の越前の朝倉氏が土岐氏の復権を名目に稲葉山城へ攻め込んできた。

織田信秀は2万の兵で村に火を放ちながら侵攻。道三は城から出てこなかったので、信秀は日没で攻撃を中断し帰ろうとした時。

道三が潜ませていた軍が一斉に織田軍を奇襲。不意を突かれた織田軍は逃走。

追撃した道三の軍は5000もの兵を討ち取ったとされる。

 

勝利した道三だったが、周辺の国の脅威は見過ごせなくなっていた。

 

越前朝倉と道三の関係は?石川さんが説明

一乗谷朝倉氏遺跡資料館の石川さんは、 北の朝倉氏と道三の関係性について…

めちゃくちゃ悪い!!

のひとことで表現されていました。

 

朝倉氏は戦国時代5代続いたそうですが、3代目の朝倉貞景の娘が、土岐頼武という美濃の守護だった人と結婚していたので、朝倉家と土岐家は昵懇。ファミリー。

大桑の城下町には四国堀もあるが、越前堀という堀もあり、これは朝倉氏が大桑に行って作った防御施設。

ただ親戚だったというだけでなく、軍事的にも支え合う関係だったそうです。

道三はそれを断ち切りたいがゆえにこの朝倉・土岐関係を攻める。と説明されていました。

 

この話を聞くと、『麒麟がくる』で道三の味方した明智家の人間を、越前の朝倉義景に匿って欲しいというお願いなんて、ただ面倒に巻き込まれたくない。なんてことだけじゃなくて、敵対していた道三の一味を受け入れたくなんてないはず!!

ユースケ・サンタマリアさん演じる朝倉義景が、十兵衛たちを嫌がるシーンがあったのも、これで納得です!!

 

ちなみに『麒麟がくる』で十兵衛たちが越前に行った時の回の感想はこちら。↓

www.lovetv.site

 

南の織田と道三の関係は??千田さんがお城で比較

『麒麟がくる』では尾張の方が美濃より進んでいそうなイメージを千田さんが打ち消してくれました。

お城でいうと実は美濃と尾張だとダントツに差がついていまして、美濃が超先進的なんです。実は先ほどの大桑城なんかでも石垣はあるし、ああいう本格的な山城を土岐氏も造ってるし。道三も稲葉山城を居城にしてるという、いかにも戦国の一番最先端スタイルを造っていたんですけど、この時の尾張って山城が全然ないんです。清須城にも石垣がない。超遅れてるんです。

と、城郭考古学の専門家の方らしくお城で美濃と尾張を比較。

尾張ではお城と史料で出てきても、館か館城だったそうで、この時期の石垣は一つも見つかってない。とのことでした。

 

ーーーこれは衝撃でした!!

『麒麟がくる』でも、尾張の方がいいから帰蝶も嫁に行けよ!って感じだったのに!

美濃の方が城下町も最先端で城も??

ドラマと印象が全然違ってきましたよ!!!

 

『麒麟がくる』で道三が尾張の魅力を語っていた回の感想はこちら。↓

www.lovetv.site

 

織田からしてみれば、そういう美濃の技術も欲しがる。進んでいる美濃。

みんなが欲しがる美濃。そういうところがあったんでは?というお話でした。

 

新しさと古さが同居した美濃?磯田さんが語る

ここで道三がいた美濃について、磯田さんの説が炸裂!

「斎藤道三って、新しさと古さが同居した美濃国にいたと思ってるんですが。」と切り出した司会の磯田さん。

磯田さんは、若狭、越前、美濃は、将軍の奉公衆と呼ばれる名門武士たちが谷ごとにいてその由緒を誇りにしている地域。それを"古めかしさの三日月"と呼んでいる地域と呼んでいるそうです。

一方で大坂、尾張など稲葉山より南側は流通が発達して商業も発達。経済の原則で動き始めている。そこの信秀、信長、道三らがいる。

道三は富国強兵をやりながら、北の保守的な土壌と戦い続けるという行動を取っていたのでは?とおっしゃってました。

 

それに激しく同意されたのが石川さん。

「土岐氏というのは"古めかしさプライド"をものすごく持っていて、足利一門に次ぐ並みいる守護の諸家の中のナンバーワンだっていうアイデンティティーを自分の武家故実書に書いちゃうぐらいプライドが高いんですよ。」

とまず土岐氏のことを語り、一方で朝倉家については…

結局、守護ではない。守護代の家柄。

土岐や六角とつるむことによって自分もそのグループの一員だっていって、イキってるタイプ。

と表現されていました。

 

これはとても分かりやすかった!!

朝倉は守護じゃないんですねぇ…。

全然例えを間違ってるかもしれないですけど、ヤンキーには入れてもらえないけれど、ヤンキーに憧れてイキってるやつ、私の中学にもいましたよ!!

自分だって違うのに、地味な奴を馬鹿にしたりするんですよね~!

って、そんな感じ?全然ちゃうか…。

 

織田信秀からの和睦の提案、道三の選択は?

北には朝倉氏。西には浅井・六角氏。南に織田。東には今川氏。と周りを敵に囲まれた道三。

そんな道三に織田からの和睦の提案が来た。

織田信秀も尾張国内で内紛があり、東から今川が尾張西部にまで迫って来ていて、窮地に立たさており、この状況を打開するために道三へ和睦を申し入れてきた。

織田の和睦の条件は、信秀の息子・信長のもとに道三の娘・帰蝶を嫁がせること。

道三の選択の道は2つ。

  1. 織田と和睦する…信秀の存在は厄介。和睦すれば脅威から解放され、土岐頼芸から国主の座を奪うことに専念できる。しかし信長はうつけ者。跡継ぎが信長だと先がない。
  2. 今川と手を組む…尾張を狙う由緒正しき名家の今川と手を組めば、美濃はさらに発展できるかも?

道三が迫られた選択を、もし自分だったらどれを選ぶか?

ゲストのお三方それぞれの意見を聞いていました。

 

飯田さんの選択は?

★1の織田家を選択★

今川家、朝倉家など、周りの守護・守護代の名家に相手にしてもらえるのか?家の格を下に見られる。同盟が整わないのでは?という理由が1つ。

もう1つの理由は、道三自身、物流が流通に重要な基盤を持っている。そうすると川だけでなく海の港を押さえている織田家とつながる海運の方まで広げていける。

 

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千田さんの選択は?

★2の今川家を選択★

今川ブランドを手に入れて、帰蝶を今川家に嫁がせれば家の格をまた上げられる。

織田家にしてみれば今川からの強力な攻めで守勢一方。そこで今川と連携して織田を挟み撃ちにして美濃から尾張を取れるチャンス

 

石川さんの選択は?

★2の織田家を選択★

家の格で今川と釣り合わないのが1つ。

あともう1つの理由が、斎藤道三の娘が土岐氏に嫁いでいる。その道三の娘が帰蝶だったのでは?という説がある。

この帰蝶バツイチ説が正しければ、一度守護に嫁いだ娘を信長にくれてやるんだから、ってことでマウントを取れる可能性があるんですね斎藤家が一度守護に嫁がせた娘をさらに嫁がせてあげるよってことで恩を売るっていうか。そういった側面もあるかもしれないと思います。」というご意見でした。

 

ここでまた分かりやすいお言葉!!

帰蝶バツイチ説とか、マウントを取れるとか。十分斎藤家には家の格を上げることを事前にしていたってことですね!!

これこそ、自分の家の格が上がったわけじゃないのに、親戚になることで自分も上がる。ってことですよね!!

 

石川さんの言葉、面白くて分かりやすくて好きです

 

磯田さんの選択は?

★2の今川家を選択★

尾張を手に入れないと、北側の勢力に対抗するのが難しい。今川家と組んで尾張を分割する。同時に信秀を攻めて滅ぼす。

今川家は怠けて支配をちゃんとしないだろうから、基本的には道三が税金を取るようになるはず。

経済力がついたところで火縄銃を買って、古めかしい城を持った誇り高い人たちを火縄銃の威力で破壊して、美濃の統一を成し遂げる方がいいのではないか?

 

磯田さんの意見もなかなか道三らしいというか、やるかもしれない考えだと思いました。

 

道三の実際の選択は?

★2の織田との和睦を選択★

織田からの提案を受け入れ、帰蝶と信長の婚姻が成立。道三は織田との和睦を選んだ。

 

道三は娘を信長の嫁がせ、婿となった信長と会った。

その時「自分の子は将来、信長の門前に馬をつなぐことになる。」と語ったという。

道三はうつけと言われていた信長の器量を見抜いていたと言われる。

と番組では紹介してました。

 

『麒麟がくる』でもこの二人が会見してました!!

これで高政との仲がもっと悪くなっていってました…。

 

信長と良好な関係を結ぶ道三

道三と会見をした翌年。信長は今川と戦する時に留守になる城の守りを道三に頼み、道三も引き受けている。

とても強固な関係を築いた。

この織田・斎藤の同盟と同じ時期。

天文17年(1548)。土岐氏を支援していた越前の朝倉孝景が急死。

このチャンスに道三は美濃の守護・土岐頼芸を近江へ追放。名実ともに美濃の国主となり、親子二代にわたる国盗りが完成した。

 

天文23年(1554)家督を息子・義龍に譲る。

親子の関係は次第に悪化。道三は実の息子・義龍を信長ほど高く評価していなかったと言われる。

弘治2年(1556)長良川の戦いで、義龍1万7千の兵に道三はわずか2千余り。

道三は義龍に敗れ討死した。

 

番組では、道三が戦の前日に遺した遺言状が紹介されていました。

終には織田上総介の存分に任すべき

道三は美濃国を息子の義龍ではなく、信長に譲り渡すと言っていたとのこと。

 

それから11年後の永禄10年(1567)。信長が稲葉山城の攻略に成功。

道三の遺言通り、美濃国は信長が治めることになった。

 

 

道三の限界

息子義龍に敗れたことについて、石川さんは「道三の悲劇というか限界が見えた。」と評していました。

今残っている道三が国発給した命令文書を見ると、国の重要事項の決定を自分一人でやっていると文書上から見える。

そのことから、道三はワンマンタイプの人間に見える。

ワンマンだと国の重臣、国衆たちの意見がですね。国政に反映されないから不満がどんどんたまってくる。

対して義龍の時代になると、斎藤六人衆という重臣たち6人で内政、外交を決定して文書で発給していくという体制に変わったとのことでした。

 

飯田さんがこの話を受けて、企業の経営に例えていました。

だんだんと企業が大きくなるにつれて、最初の新興企業だった時代と上場してこれから大きな市場を獲得していこうとする時だと、必要な経営者の資質が違う。

美濃の時の家中で重きをなすためには、道三の父のような才覚が必要。

美濃を統一するためにはやはり道三の才能というのが、非常に重要。

しかし、これからもっとより大きな存在に育っていくためには、道三のようなやり方は時代遅れだと義龍も国衆たちも感じ取っていたから、1万数千 対 2千の構図だったのでは?とおっしゃられていました。

 

これは納得する話です!!

誰もが認めてもらいたいですよね!

自分の話も聞いてくれないトップについていきたいとは思えないですよね。

国が大きくなって、隅々までひとりじゃ見切れないですし。

人に任せることが出来たら道三も生き延びれてたかもしれないです。

 

道三の失敗の理由を磯田さんが語る

道三は血統より実力を信じてのし上がった

けれど信長に会った時、自分の息子を否定している。

家柄を否定してのし上がった道三は、自分の息子の家柄も否定しようとした。

「おまえはぼんくらなのに俺の子供なだけで国を治めれると思うなよ。隣にはお前よりもっとすごい実力のある俺に似た信長がいるぞ。」と言い続けた。

それは離れようとする人が出てくる。

人の気持ちが分からない人は裏切られる。

実力主義者の道三や信長のような人は、その点に気をつけなけれいけない。

という1の例かもしれない。とおっしゃてました。

 

似た者同士ですよね。だからこそ気が合った。

でも自分と違うタイプの人を否定しちゃだめですよね。

息子で家を継いでくれる人なんだし。

でも道三は家を残そうとかいう考えはあったのかな?自分が国盗りした時点で終わってたのかもしれないです。

 

信長への道三の気持ち

城の留守番をした話。

千田さんはこの話について、息子の義龍からしたら「とっちゃえよ。」と思ったのでは?とおっしゃてました。

 

石川さんは信長から道三への気持ちを代弁。

長良川の戦いで、援軍に間に合わなかった話。

1日2日で終わらず、1週間ぐらい続いていれば信長は助けてに来ていたはず。そういう信頼関係があった。

とおっしゃってました。

 

信長と光秀の二人のバケモノを生み出した

番組の最後に親子二代で成し遂げた美濃の国盗りの話について、磯田さんが感想を述べられていました。

 

斎藤道三は国盗りには成功したが、家柄主義を否定する新しい考えを持つ実力主義は美濃で受け入れらず滅ぼされた。

けれど2人の弟子によって引き継がれた。

信長だけが道三モデルを引き継いだと思われがちだが、もう一人光秀がいる。

信長の実務を器用にこなして、年を取ってから権力をかすめとろうとする点が、道三の行動パターンが似ている。

「信長と光秀という2人の弟子を2人のバケモノを生み出したのではないか。」

というまとめをされていました。

 

磯田さんが話している横で千田さんがとても納得したような素振りをされているのがかわいかったです。

 

光秀も道三の弟子とは…思いもよりませんでした。

年を取ってから権力を取る。なんてまぁ、確かにそうですよね。

そう思って『麒麟がくる』も見ていけば面白いかもしれないです!!

道三の信長となら大きな国をつくれるかもしれないっていう遺言も残してますし、自分のやり方を継承しろという見方で見れば確かにそう見えるかもしれません!!

 

今回の英雄の選択はおもしろかったな~。

特に石川さんの言葉がとても分かりやすくて、現代的に落とし込んで理解する事が出来ました。

 

この回は6月24日に再放送されます。

文書とか大桑城が見たい方はぜひ再放送をご覧ください!!!

 

以上、英雄たちの選択「戦国ミステリー 斎藤道三はふたりいた!?~下克上の真実~」の内容と感想でした。